ノラブログ。               

 
 
 
 
 

【コス動画】刀剣乱舞1人10役やってみたよ!

 

リアリティ番組として消費されるプロブロガー兼ラッパー宮森はやと氏

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1日を50円で売った(ら炎上を起こした)プロブロガー宮森はやと氏
彼のその後について一度ツイートで触れた。

 

 

ご本人はいたく傷ついたようで、わざわざこのツイートについてブログで取り上げていただいた。(恨みはないんだ。ごめんね)

www.miyahaya.com

 

 

 

その後、自己判断で通院を辞めてアル中脱却宣言したり(していいのか)、キリスト教に入信したり、友人に借金を返さない言い訳をしたりといろいろやりつつ低空飛行していたようだが、先日このエントリがアップされてまたしてもプチ炎上を巻き起こしているみたいだ。

www.miyahaya.com

 

 

内容については特に触れない。
ひょっとしたら天賦の才能あるかもかもしれないし。(1/地球人口くらいの確率で)
個人的には、半年後くらいにラップから「戦略的撤退」し、「自分でセーブできるようになりました」と言いつつ酒を浴びる生活に戻ってる可能性にベットしたいが。

 


ともあれ、何人かがブクマやツイッターで触れているように、宮森氏のこうした突拍子もない行動に、ある種の「面白み」が滲み出し始めているのは確かである。
少なくとも、怪しげなビジネスマンと化したイケハヤ師や、小銭稼ぎに精を出すやぎぺー氏、はあちゅうあたりの一群よりかは今後の動向に興味をそそられる。ひょっとしたら今後しばらくは定期的にブログをチェックしてしまうかもしれない。

 

 

自分のコンテンツ化には、ある意味で成功しているともいえよう。
もっとも、多くの観客の彼を見る目は、リアリティ番組の出演者を眺める目と同じである。
自分に何の関係もないひとりの人間が、自分とまったく縁のない世界で苦しみのたうち回る様子を、自宅のソファに寝そべりながらポテチと綾鷹のペットボトルを手に野次馬として消費する目である。

 

 

「俺こいつよりはマシだわ」という消費のされかたで、本当に満足なのだろうか、彼は。


自分を「何者」かとして見られたくてたまらない彼のプライドは、そうした扱いを許すのだろうか。


遠からず破綻が訪れる、と思う。少なくとも今のままでは。

 

 

 

声援も罵声も含め、それを飛ばす観客の多くは無責任である。
自分がどう消費されているかについては、自覚的であるべきだろう。

 

 


 おまけ:当のブログより面白かったやりとり↓

 

 

 わっしょい。 

【書評】「文化部」系物語を読むー『げんしけん』と『ぼくは落ち着きがない』

 

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 げんしけん木尾士目講談社アフタヌーンKCの連載開始が15年前と気づいて驚く。この作品が読み継がれ、一度は完結しつつも時代の要請にあわせてリバイバルし、いまや大学オタク系サークルにおける一種のバイブルと化しているのは、作品自体が非常に優れたものであったことと同時に、こうした「文化部」的空間を切り取った作風が、世の多くのライトなオタクたちの共感を呼んだことが理由として挙げられるだろう。

 

げんしけん』の魅力は、その掴みどころのないリアルさにある。げんしけん』が描くのは『ヨイコノミライ』のような青春期の残虐さでもなければ、『辣韮の皮』『幕張サボテンキャンパス』に代表されるギャグへと昇華された日常ネタでもなく、『稲中』みたいな、破天荒なギャグとその裏側にひそむ哀しみの応酬で繰り広げられる青春群像劇でもない。『げんしけん』はただ「いま」「そこにあるもの」を淡々と描写し続ける。確実に存在するが、けれど掴みどころのない「いま」は、時として笑いを誘ったり、あるいはひやりとさせられたりするが、物語の骨格を揺るがすには及ばない。げんしけん』は「日常」「日常」として放り出したまま、ただ眺め続けるのだ。

 

ゆるゆる続く日常の物語、なんて一言でまとめるのは失礼にあたるだろう。あまたの「日常」系漫画で意図的に無視される事柄―記憶から一瞬で過ぎ去っていきそうな小さな事象の切り取り方、筋も事件もない中でそれでも年月とともに変化していく登場人物の心理描写、そしてタイムリミット付きの「日常」の最終的な落とし方など―について、この作品はずば抜けて意識的であるし、そしてそれらを描くことに成功しているからだ。げんしけん』のリアルさは、楽しさ、面白さ、残酷さ、やりきれなさ、すべてに対して「わざとらしく」処理することなく真摯に向き合い、「当たり前」を「当たり前」として描き続けたがゆえの賜物である。

 

 

ぼくは落ち着きがない (光文社文庫)

ぼくは落ち着きがない (光文社文庫)

 

 長嶋有の小説『ぼくは落ち着きがない』は、その作風および作品構造について『げんしけん』と非常に近いものを持っている。すなわち本作は、よくある青春小説的なわざとらしさを極力排除し、ただ「いま」「そこにあるもの」を描写することに徹している。ゆえに、本書には筋の通った大きな物語は存在しないし、登場人物たちの心理や行動は時として非常に理不尽であるし、また事件も唐突に始まって終わり、あるいは解決されずまま宙ぶらりんのまま終焉を迎える。

 

たとえば前半、あるキャラのどう見ても何気ない一言がちょっとした事件に発展し、それは解決されないまま原因を作ったキャラはしばらくフェイドアウトする。後半、主人公がある部員から嫌われ始めるが、その詳しい理由は語られない。別の部員が不登校になるが、その理由も本人の口から語られることはなく、またそれ自体が物語の軸となるわけではない(不登校が他の部員たちの心理に影響を与えたようには見えない)。ラスト、破綻は唐突に訪れ、多くの伏線が放り投げられたまま物語は終焉する。

 

まとまりがない、とも思える。だけど、これってものすごくリアルな青春劇じゃないだろうか。考えて欲しい。「伏線」を回収し「事件」が解決され、そして「大団円」を迎えた幸福な青春時代を送った人が、いったいどれだけいるというのだ。みんな「伏線」は放り投げられ、「事件」は結局解決されず、そして「日常」はぷっつり途切れたまま、新しい「日常」へと移行したのではないか。みんな、「何も起きない」けれど「落ち着きがない」青春を送ったのではないか。

 

自分の知らないところで世界が勝手に動き、そしてその説明をすることはできない。誰もが他人に、あるいは自分自身にたいして掴みどころのなさを感じ、その曖昧さを脅かさない範疇でしか干渉しない(できない)。そうした理不尽さを含めた「日常」の中で、みんなが各々「自分」というキャラを演じてる(陳腐な言葉だが)がゆえに成立する、ライトなオタクたちの「文化部」的空間。本書で描かれるそれはまさしく、『げんしけん』と通じるものだ。

 

げんしけん』的世界を描くことに本作はある程度成功している。ゆえに一定の評価は与えられるべきだが、それでもその技術は、たとえば保坂和志「日常」へのアプローチほど巧みではない。そうした意味で本作はまだ未熟さが残るが、しかしその試み自体は意欲的であるといえよう。よりブラッシュアップされたこの作者の青春小説を読みたいところだ。

随所にマニアックなネタ(「僕がもっといいポスター描いてきますよ」の元ネタに気付いたひと、どのくらいいるんだ?)が仕込まれているので、特に20代には楽しく読める。単行本はカバー裏にもちょっとしたサプライズがあるんで、読み終えた方は是非。

 

※この書評のはもともと2011年に書いたものである。その後『げんしけん』は連載を再開して二代目となり、作風を変化させつつ2016年に大団円を迎えた。それを踏まえてもう一度『ぼくは友達が少ない』と比較してみたいものである。

 

急にモテ始めちゃった人たちに起こりうること

 

ここ最近でダントツに面白かった動画。

www.nicovideo.jp

ここで取り扱われているチェッカー卓騒動については、傍からなんとなく眺めていた程度の関心しかない(そもそもクトゥルフTRPGのゲームシステムすら断片的な知識しかない)ゆえ、この動画の事実性の度合いについてはここで問題としない。

(まとめやコメントを見る限りでは、起こった出来事の概要や時系列それ自体については、概ね正しいようではある。もっともそれをどう解釈しどちらに正義を置くかはうp主の問題であり、部外者の俺がいちいち判定する意味はない)

 

そうした点を差し引いても、この動画はたいへんおもしろい。
動画作成者しもやかの演出、構成が冴えていることは言うまでもないが、それ以上に、「ネットで急にモテ始めてしまった人たち」がその後どう動きいかなる結果を迎えるか、ひとつの興味深いサンプルがここに提出されている。その点に感銘を受けた。なぜなら俺自身、これにかなり近い構図のなかに現在進行系で組み込まれているという自覚があるからだ。言うまでもないが、コスプレ界隈である。

 

どんな業界でも似たようなものだが、トラブルの原因はたいてい金か下半身である。コスプレ界隈においては概ね後者である。いくら「ただしイケメンに限る」とは言いつつも、あるいは幾多の反例を挙げることが可能であろうと、コスプレという趣味が現在、「手軽にモテられる手段」として大衆に消費されつつあることはほぼ間違いないと思う。
全員がそうだと言う気はさらさらない。あるいは、それが悪いと言っているわけでもない。冒頭の例と同様、俺はそれを判定する立場にないし、判定したところで何ら影響力があるわけでもなく、無意味である。ただし、仮にこの仮説が正しいとすれば-コスプレが「モテ」として消費されているのであれば-この動画は、俺たちのいる世界の未来の見取り図として解釈することも可能かもしれない。未来と言わず今だってそうじゃないか?いつの間にかツイッターは主戦場となり、自分への礼賛ツイートを逐一RTし、聞こえてくるのは男女関係の歪みによる怨嗟と、即売会や自主イベントの皮算用。チェキは一枚500円でーす。そうした悪夢的な光景は、今夜も俺のタイムラインに怒涛のように滑り流れてくる。ガンジス川の死体のごとく。

 

「ハチャメチャに面白いコスプレ界隈」という動画が近い将来作られるとして、そのとき俺は取り上げる側なのか、取り上げられる側なのか、あるいは今のまま傍観者でいられるのか。
基本的に臆病で無責任な性分である。願わくば、常に傍観者でいたい。そういや「見て見ぬふりをするやつもいじめの共犯」みたいなフレーズがありましたね、小学生んときに。あのね、いじめをやるのにもリスクがあるの。洟垂れガキでもそんくらい皮膚感覚で理解してますがな。見て見ぬフリ、もといこっそり傍観しながら目の前で繰り広げられるエンタメを享受するのが一番ラクって、当たり前の話でしょう。だって疲れるじゃないですか。子供ナメないでもらえますぅ―――?虫唾が走るチキン野郎。今も昔も卑怯者。ええ、爛れた性根は小学生からまったく変わっていないのよ、俺は。東ニ病気ノ子供ガイテモ、西ニ疲レタ母アッテモ、南ニ死ニソウナ人ガイヨウト、北ニ喧嘩ヤ訴訟ガアロウト、関ワリモセズ苦ニモセズ、サウイフモノニワタシハナリタイ。

 

閑話休題

 

バカのバカ的な振舞いを見てしまい、またしても辟易している。特定の誰かに宛てたものではないのでその点は安心して欲しい。いや安心しないで欲しい。あなたがその一員である可能性は泰然として存在している。大衆は常に自らが社会や集団に規定されていることに自覚的であるべきである。なんのことやら。

 

イベントバー・エデンの「えらいてんちょう」氏のブログを読んでいる。

えらいてんちょうの雑記

べらぼうに面白い。プロブロガー界隈とかあのへんのポンチ記事量産してるやつらが一瞬で吹き飛ぶほどの知性とエンタメ性。圧倒される。人生の肥やしになるのはこういう文章である。こういう内容である。こう言ってはなんだが文明レベルが違いすぎる。いやー文化資本って残酷ですね。わっしょい。

 

銀魂の実写映画版、観てないんだけどなかなか評判よろしいようですね。一方で予想していたとおり、ボロカスに近い強硬な否定意見も流れてまいりました。すげえ長文で。いやー映画楽しんでるなぁ。あそこまで逐一具体例を挙げて憤りを表明できるということは、その作品を骨の髄まで味わい愉しみ尽くしたということですよ。これは皮肉でもなんでもなく本当にそう思う。だから俺はあの批判者が羨ましい。原作ファンでもない俺は、おそらく銀魂にそこまでのインパクトを設定できない。人並みに面白がり、あるいは人並みに残念がる程度のリアクションしかできないと思う。

 

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ルイボスミントティーのティーパックを買いました。さっそく水出ししてみたぽよ。ちょっと味が薄いかな。オリゴ糖を垂らして丁度良くなる程度。お風呂上がりなんかに良いですね。さわやか。この記事はあんまり爽快な感じでもないですね。そうかい。はい。ではまた。