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【書評】「東京」に侵食されてしまう前にー吉田修一『パーク・ライフ』

 

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)

 

 

 ぼくは吉田修一は『パレード』から入ったクチで、原作も映画も双方愛している(「好き」じゃなくて「愛している」)のだが、その映画版のコメンタリーの中で監督の行定勲が興味深いことを言っている。いわく、「吉田修一は『東京』を描くのが巧い」と。

 

 東京。大都会、東京。日本中が似たような無個性な街並みになった今、「都市文学」なんて言葉はもう死語か。が、それでもやはり、「東京」という場所は、単に物理的な都市空間や情報・流行の集積地としての意味をはるかに超えた、何か特別な価値を持っている。

 

 吉田修一行定勲も九州からの上京組だ。行定勲は、初めて東京に出てきた頃の自分を「東京に侵食されていく」と表現した。すべてを巻き込み、飲み込んでいく集合体としての「東京」は、少々の不可解さや矛盾、汚らしさや不道徳など一瞬のうちにかき消してしまい、東京に暮らす人びとはしだいにそれに慣らされていくと。吉田作品の根底には、そうした「東京」という場所の魅力と怖さが眠っている。

 

 たまたま地下鉄で出会った男女が公園で再会することから始まる、淡い色合いの恋愛小説として読める表題作。地方から出てきた若者の平凡な生活が、職場の先輩との掛け合いによって奇妙に歪んでいく『flowers』。読後感含め、かなりテイストの違う2作が収録されているが、共通しているのは登場人物たちが「なにげに」生きていること、そして、彼らの生きる空間としての「東京」の描写の素晴らしさだ。

 

 特に目的も行動理由もなく、淡々と生活している登場人物たち、そして、その周囲を取り囲むビルや公園、群衆といった何気ない風景。誰もが見過ごしてしまいそうな日常を、この作者は鋭く切り取り、丁寧に彫刻しようとしている。だから登場人物たちは、その欠点やグロテスクな側面も含めてどこか憎めなくて魅力的だし、彼らの生きている空間が愛おしいものに思えるのだ。

 

 正岡子規は「理想」(=想像)は月並平凡であり、「写生」(=現実)は多種多様であると言った。「理想」は一見自由なイマジネーションのように思えて、実は既製のイメージなりパターンに拘束された、出来合いのものにすぎない。むしろ、目を向けるべきは今そこにある現実のほうだ。自分の周りの風景を、人の顔を、偏見なしに眺めてみるが良い。見れば見るほど、見慣れたはずの世界が次々に新しく見たこともない世界に姿を変えていくではないか、と。

 

 なるほど吉田修一は「写生」の作家なのかもしれない。試みに、彼の作品を読んだあと、ちょっと外へ散歩に出てみるといい。犬を連れた老人、学校帰りの子供たち、キャバクラの呼び込み、ラーメン屋から出てくるサラリーマン、スタバで時間を潰す女の子、信号機の光、電車の音、どこからか聞こえてくるパトカーのサイレン……いままでの世界がまったく違ったものに見えるはずだ。

 

 なるべく早く読むといい。あなたが完全に「東京」に侵食されてしまう前に。