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【書評】すべてのマジメな大学生に捧ぐー浅羽通明『大学で何を学ぶか』

 

 

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

 

 

 7年前、大学に入学するにあたってぼくが最初に手に取った本。そして最初に衝撃を受けた本。以来、社会人になった現在に至るまで何度も読み返している。今春の大学新入生から「なんか面白い本ありますか?」と聞かれれば、まずこれを差し出すだろう。 

 

 本書の最大の特徴は、大学教授センセイ方の書いた「粛々と勉学に打ち込みなさい」「授業をフケて遊ぶだけの大学生になるな」とお説教を垂れるあまたの大学生活入門書とは一線を画している点だ。

 「せっかく授業料を払ってるんだから、講義にはちゃんと出なきゃ」などとうそぶくお利口ちゃん大学生を、浅羽通明は嘲笑う。「お前はそうやって、自分の行為を正当化しているだけだろう」「まず講義を真面目に受けてどんな利益があるのかを考えろよ」と。そして極めつけはこうだ。「君は、勉強に打ち込むことで『自由』から逃げているんじゃないのか?」 

 

 現代の大学が、もはや最高学府とは名ばかりの、かつての「教養」や「学問」の残骸でしかないという現実。そして企業も社会も、大学に通う学生自身も、それでこれまでまったく困らなかったという現状。画期的な大学改革の実験であったはずの慶応SFCが、必ずしも成功していないという謎。読み進むにつれ、世間に溢れるありとあらゆるタテマエがぶっ壊され、解体されていく。そしてその中で見えてくる「大学」の赤裸々な姿。果たして「大学」とはなにか。このどうしようもない前時代の遺物としてのシステムを、われわれはいかに実生活において活用すべきなのか。こうした考察から、ひいては日本社会の縮図が見えてくる。 

 

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 大学は「最高学府」でもなければ「教養」を得るための場所でもない。大学は、「○○大学出身」という肩書きを得るという「世間」としての意味しか持たない。大学へ入学するということは、過去から現在へ、そして未来へと脈々と受け継がれて行く「世間」という空間へのパスポートを手に入れる行為に他ならない。所詮、世の中は大学の「入口」と「出口」しか見ていない。その中で何が起ころうと、そんなのは知った事じゃない。 

 

 現代では、かつての意味での「教養」は失われた。少なくとも大学からは姿を消した。「教養」がそれを共有する者たちに連帯感をもたらし、「世間」を強化するためのカタログであると理解すれば、現代における「教養」はもはやテレビやインターネット空間に存在することは明らかだ。 その中で、あえてかつての意味での「教養」を求めるとするならば、その意味はどこにあるのか、そしてその「教養」はいかに活用されるべきなのか。その答えは本書にある。

 

 世に大学生活指南本は数あれど、本書ほどその深部に食い込み、「学ぶ」ということの意味を解体してしまった本をぼくは知らない。すべての大学生にお奨めできるが、とりわけ「学問」や「教養」をマジにやりたいなんてちょっとでも思っちゃう人には、本書は強烈な解毒剤となるだろう。特に、大学を何かとてつもなくありがたいものであると思い込み、「大学で何を学ぶか」なんて本を手に取ってしまう、例えばぼくのような人間には。