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のび太は「成長」できるのか?ー『STAND BY ME ドラえもん』

 

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 『STAND BY ME ドラえもん』観てきました。


 「ドラ泣き」なる、心底げっそりするキャッチコピー(これを採用した人には「百苦タイマー」でも差し上げればいいと思う)+山崎貴監督作のコンボ、ってことで地雷を踏む気マンマンで行ったわけですが、思っていたほどアレな映画じゃなかったというか、良いところは結構あったし、でも決定的に許せない改変とか脚本の不備もやっぱりあったし、どうにも煮え切らないというか、賛否両論も納得といったふうでございました。

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 先に褒めておくと、まずCGのクオリティは素晴らしかったと思います。
 もちろん3Dで観たわけだけど、特にタケコプターで空を飛び回るシーンなんかは「ドラ映画でこんな体感ができるなんて!」って衝撃はあったし、童心に帰ったみたいで楽しかったですね。キャラクターのデフォルメに関しては全体的にのび太が気持ち悪いのと、ドラえもんの口が「3」の字になってるときがすげぇ不細工なのがネックですが、しずかちゃんがド可愛らしかった+3Dでお風呂シーンが見られたのでこちらも合格点といえるでしょう。声優さんも以前より格段に違和感がなくなってましたねー(自分が慣れたってのもあるけど)。

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              ド可愛いしずかちゃん


 また、原作を一応(途中までは)筋の通った脚本に組み直して、一本の映画としてタイトにまとめあげたことも相応の評価をされてしかるべきでしょう。
 「ムービーウオッチメン」の中で宇多丸師匠も指摘されてましたが、映画化にあたってドラえもんという作品の原点に立ち返る=ドラえもんのび太の元へやってきた目的と、その達成を再考察する」というのは誠実な姿勢だし、そうした意味でこの映画、作り手がちゃんと原作への愛を持って取り組んだ作品なんだと思います。そこは疑いません。


 その結果として出来上がったものが、原作が長期連載化して以降の終わりなき日常(サザエさん)要素をばっさりカットし、原作6巻の「さようならドラえもん」で完結していたはずの『ドラえもん』を再構築した脚本となったのも、コンテンツのつまみ食いと言えば聞こえは悪くとも、少なくとも納得度は高いし、こうしたアナザーストーリー的な映画化は全然ありだと思います。

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     こんな気持ち

 というわけで、途中まではなかなか上手く作ったなぁと感心していたんですが、各エピソードの繋ぎ方、とりわけラスト2つのエピソードに関しては…すいません、率直に言ってバカじゃねえの?と口に出して言いたくなるくらい怒りが湧いてしまい、それがこの映画全体の評価を大きく下げる要因となってしまいました。

 そんなわけで、以下は基本的にこの映画の「よくなかったところ」を述べていきます。



 先ほど脚本を「つまみ食い」と言ったとおり、この映画は原作のさまざまなエピソードを繋ぎあわせ、一本の映画としてまとめています。
 基本的な流れとしては以下のとおり。

「未来の国からはるばると」(原作1巻、ドラえもん登場)
 ↓
「たまごの中のしずちゃん」(原作37巻、「刷り込みたまご」のエピソード)
 ↓
しずちゃんさようなら」(原作32巻、のび太としずかのケンカ(?))
 ↓
「雪山のロマンス」(原作20巻、未来のしずかのピンチを救おうとするのび太
 ↓
のび太の結婚前夜」(原作25巻、結婚前夜のしずかのエピソード)
 ↓
「さようならドラえもん」(原作6巻、ドラえもん、未来へ帰る)
 ↓
「帰ってきたドラえもん」(原作7巻、ドラえもん、ふたたび現代へ戻る)



① 「帰ってきたドラえもん」問題

 まずこの並びを見て最初に感じるのが、なんでラストに「帰ってきたドラえもん」持ってきちゃったの!?ってことです。
 この映画はのび太の成長」という物語を大きな軸としています。のび太が自らの力で未来を切り拓いていける人間として自立できたとき、ドラえもんの役目は終わり、ふたりは永遠に別れるわけで、だからこそ、ドラえもんの目的の完遂とのび太の成長を鮮やかに描いた「さようならドラえもん」は、『ドラえもん』というコンテンツの最終回として完璧であり、今なお語り継がれる号泣エピソードとなったわけです。

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 一方、「帰ってきたドラえもん」は、いったんオチをつけて閉幕した物語を再開させるためのF先生の苦肉の策であり、ドラえもんが帰ってきた!という喜びはあるものの、前回であれだけ感動的に別れたドラえもんが、たかだか道具ひとつの力であっさり戻ってきてしまうのは「じゃあなんでもありじゃん、ウソ800飲んで『この毎日は永遠に続かない!』とでも言えばいいじゃん…」と、いささか興醒めしてしまうのも確かなわけです。

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 このように、複雑な経緯で続くことになった原作『ドラえもん』が内包している問題点を、本作はまったくリライトしていないどころか、一本の映画として矢継ぎ早にまとめたぶん、かえってその欠陥を浮き上がらせてしまっています。
 上映中、「さようならドラえもん」が美しく終わり、「おぉ、ここで終わるのか。やるな」と思った瞬間、「帰ってきたドラえもん」が始まったときはかなり落胆してしまい、これ以降、映画を真面目に見る気を完全に失くしてしまいました。そのくらい、このエピソードを最後に持ってくるってのは「ありえない」と断言します。


② コメディエピソードの改悪問題

 原作では、のび太は基本的には何をやってもダメで、かつ自分の利益のためにしか行動しない人間として描かれ、たいていは最後に自分の身勝手な行動のしっぺ返しを食らって話が終わります。
 のび太の結婚前夜」において、しずかのお父さんののび太くんを選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ」という台詞は多くの人の感動を誘いました。この言葉はもちろんこの映画にも出てくるわけですが、このしずかパパの台詞に説得力を持たせるためには、この映画内でのび太を「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人間」に成長させねばなりません。

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            号泣シーン

 この映画では、のび太を成長させ、かつしずかとの関係を進展させるための通過点として、「たまごの中のしずちゃん」「しずちゃんさようなら」「雪山のロマンス」という3つのエピソードを引っ張ってきています。

 

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 「たまごの中のしずちゃん」のオチ。出来杉が超人すぎる。
 

 この3つのお話、いずれも原作は基本的にコメディです。「たまご」と「雪山」では、のび太は道具の力を借りてしずかの心を掴もうとしますが、結局情けない姿を見せて終わり、ドラえもんにあきれられてしまいます。

 「しずちゃんさようなら」は、バカバカしい勘違いをして勝手にヒロイックになっているのび太と、それをさらに誤解して余計深刻に捉えるしずかが完全に周囲から浮き上がって2人で右往左往するという(ほとんど「ドラマチックガス」のテンションに近い)、一見シリアスに見せながらもやっぱり笑える話で、最後の最後に、ほんのすこしの爽やかな感動を残して終わるという秀作エピソードです。

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    盛大に勘違いしまくるしずか


 のび太としずかの関係を描き、かつのび太が道具を使ったことのしっぺ返しを食らう。エピソードのチョイス自体は悪くないと言えます。問題はそれぞれをシリアスな物語、「ドラ泣き」をさせるための装置として改変してしまったことです。

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 いずれのエピソードも、のび太が滂沱のごとくわんわん泣きまくって、涙のインフレ状態。だいたいドラえもんって基本ギャグ漫画ですよ?コメディを無理やり「いい話」にする必要はあったのか、すさまじく疑問です。


 中でも象徴的なのがやはり「雪山のロマンス」でしょう。コメディ色は一掃され、のび太が余計なことをしたために、しずかが死んでしまう一歩手前まで状況が悪化します。さすがにこれは原作の持ち味をぶち壊しにしていると言われても仕方ないし、解決策として編み出される「この記憶、届け」なるエピソードも、タイムパラドクスとか完全に無視した(後述)強引すぎる展開で、こちらもまったく感心しませんでした。だいたい、この改変後のエピソードでも、別にのび太は成長も何もしてないわけで。

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    缶詰ネタが削除されていたのも不満

…もっとも、この「雪山のロマンス」、直後に「さようならドラえもん」を持ってくるのであれば、ちょっと評価が変わってきます。というのも、ラストエピソードの直前にクライマックスを持ってくる必要があり、そのためにシリアスにしたということであれば、この改変も必然性があるものとして、ある程度許容できるようにはなるからです。
 問題は、このあとに来るのが「のび太の結婚前夜」であり、その後に「さようならドラえもん」が配置されてしまったことです。

 



③ 「のび太の結婚前夜」のあとに「さようならドラえもん」持ってきちゃった問題

 

 「のび太の結婚前夜」→「さようならドラえもん
 はっきり言って、この配置は最悪です。ダメダメです。
 なぜなら、ジャイアンという超重要キャラクターの持ち味を殺すことになってしまうからです。

 「さようならドラえもん」では、ジャイアンのび太立ち向かうべき敵であり、きわめて悪辣な人間として描かれます。

 一方、「のび太の結婚前夜」では、ジャイアンスネ夫出来杉とともに、のび太のためにバチェラー・パーティを開くほどの仲であり、友達として心からのび太を祝福する人物として描かれます。そこには、のび太だけでなく、ジャイアンの心の成長をも垣間見ることができます。

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       のび太の結婚前夜」より。スネ夫の髪型にも注目。


 「さようなら」で敵として描かれたジャイアンを、のちに「結婚前夜」では友として描く。その順番なら分かります。
 しかしこの映画は、その逆をやってしまっています。さらにその後に「帰ってきた」を持ってきてしまい、のび太に負けを認めたにも関わらず、相変わらずのび太をいじめているジャイアンスネ夫という構図を繰り返している点に至っては、もう目も当てられません。

 この部分に限らず、この映画で僕がいちばんムカついたのは、ジャイアンスネ夫という愛すべきキャラクターが、あまりに不憫な扱いを受けていることです。都合の良いときに都合の良いリアクションをしてくれるだけの、まさしくお話を進めるためだけに存在する、言ってしまえば書き割り的な悪役としてしか登場しないため、ちっともチャーミングじゃありません。そんな奴らが未来でのび太を祝福していようと、感動もクソもあったもんじゃない。

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      愛すべきスネ夫(ちがう)


 のび太の成長物語としてこの映画にケリをつけるなら、「結婚前夜」はむしろ最後に持ってくるべきでしょう。「さようなら」のラストでのび太は自分ひとりの力でジャイアンに勝ち、ドラえもんは安心して未来へ帰る。自ら生きていくようになったのび太ジャイアンスネ夫も認め、彼らの間に本物の友情が芽生えていく。そして時は経ち、のび太の結婚前夜。そこには、「心の友」となった彼らの姿があった。
 あの、これで良くないですか?ダメなの?

 「結婚前夜」は一応、未来のしずかを現代ののび&ドラが隠れて見てるって体裁だから最後には持ってこられないって話なんでしょうけど、別にこれ、現代から未来を眺めるという視点を取り払っても(完全にドラえもん抜きで、未来ののび太やしずかを三人称視点で眺める話にしても)充分成り立つと思うんですよ。
 「雪山」でのび太はプロポーズにOKの返事をされたんだから、ドラえもんにはこの時点で未来へ帰る理由はできたわけで、そのあとに地続きで「さようなら」を持ってきても不都合は生じないはずだし。これじゃだめなの?

 もし「雪山」→「結婚前夜」と繋げたいのなら、「さようなら」は涙をのんで除外し、かわりにドラえもんに休日を!!」を入れるべきでしょう。


 「ドラえもんに休日を!!」(原作35巻)は、ドラえもんに休日を与え不在となった状況下で、のび太が一人でしっかりやっていけるか、というお話です。ジャイアンスネ夫は当初、ドラえもんを呼ばざるを得ない状況を作ろうと何かとちょっかいをかけますが、街の不良に絡まれてもドラえもんを呼ぼうとしないのび太の意志の強さに心を打たれ、のび太を助けて一緒に不良に立ち向かいます。帰ってきたドラえもんに「僕のいない間に何かあった?」と聞かれたのび太が「何もない平和な一日だったよ」と笑顔で答えるところで物語は終わります。
 

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   「ドラえもんに休日を!!」より、劇場版じゃないのにイケメン化する剛田さん


 このエピソードなら、のび太の自立は充分描けるし、それを受けてのジャイアンスネ夫との関係の変化も描けるわけです。そして、ドラえもんなしでもどうにかのび太はやっていけるかもしれない…と匂わしてエンドクレジット、これも悪くないんじゃないですか?(ドヤ顔)こういう、ほんのりした爽やかな「ドラ泣き」なら僕は高く評価しますよ。


 もっとも、「結婚前夜」からいきなり「休日を」につなげるのもアレなので、その前にのび太もたまには考える」(原作34巻)みたいな、のび太に自問自答させるワンステップを設けたほうが良いとは思いますが…

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       隠れた名エピソード「のび太もたまには考える」より。

 

 

④ タイムパラドクス問題

 この映画、全体的にタイムパラドクスの扱いがいい加減すぎます。

 まぁ原作自体、有名なセワシくん問題」(セワシが主張する、東京から大阪に行くのにどの交通機関を使おうと到着地点自体は変わらない、ゆえに過去を改変しても未来は変わらないという、納得出来ないにもほどがある超理論)を放置したままなのでそのへんアバウトな漫画ではあるんですが。

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      セワシの理論。ビタイチ納得できません。


 しかしこの映画では、タイムパラドクスがかなり重要な要素として位置づけられています。のび太の現在の行動によって未来の情景がリアルタイムで変化するって描写もあるし、「雪山のロマンス」ではご丁寧にもドラの口から「時間軸に干渉することによって未来は予想外の方向に改変されてしまうことがある」的な台詞まで言わせています。


 にもかかわらず、この映画はあまりに杜撰であり、ご都合主義的です。まずセワシくん問題。どう処理するのかなーと思ったら、まるまるカットしてたのはびっくりしました。いや、それでいいのかあんたら。あと先ほどのドラえもんの台詞ですが、そもそもドラえもん自身が過去に干渉して未来を変えるためにのび太の元に来たはずなのに、今さらお前なに言ってんの?って話ですよね、これは。別の時間軸に干渉する行為の危険性や重要性が統一した設定としてプログラムされていないから、のび太の「届けこの記憶!」もぜんぜん納得できねぇし、ましてや感動なんてできるわけないんですよ。

 それに加えて何より酷いと思ったのが「成し遂げプログラム」なる映画オリジナル設定。ドラえもんを未来に帰す強制力が必要ってのは分かるけど、正直言ってすごく醜悪な設定だと思いました。ドラえもんにこんなものをプログラムするセワシは間違いなく鬼畜だし、違反すると電流が流れるというのも、なんか秘密警察の拷問とかを連想させて嫌な気分になりましたよ。

 
 とまぁ、こんなところでしょうか。
 総評としては、良い部分は確かにあるが、決定的に許せない部分も併せ持つ、ゆえに積極的に高評価はできません、といったところ。100点満点で45点ですかね。

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 いろいろ言いましたが、こうして長々と感想を語れたり、原作の良さを再認識したり、「ぼくの考えた理想のドラえもん映画」とかを妄想できるあたり、やっぱり観て良かった映画ではあると思います。

 

 現在大ヒット中、ロングランになりそうな勢いだし、この機会にぜひお暇な方は劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか。