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【書評】教養と宗教とオカルトのあいだー嵐山光三郎『死ぬための教養』

 

死ぬための教養 (新潮新書)

死ぬための教養 (新潮新書)

 

 

 小さい頃、死ぬのが本当に怖かった。脈があれば生きているのだと知って自分の腕を握り「脈がない、脈がない」と恐怖している子供を、僕は笑えない。毎日毎日、何らかの方法で「ああ、自分は生きているのだ」と実感せずにはいられない時期が、僕にはたしかに存在していた。

 

 明日、自分がトラックにはねられて死んだとして、それ自体に恐怖は感じないだろう。その「死」は唐突に訪れ、そして去っていく、僕にとっては一瞬の事象でしかないからだ。しかし、医者から余命半年と告げられたら取り乱すに違いない。その「死」は確かに存在感をもって自分を侵食してくる、生き物のような「死」であるからだ。

 

 「死」はすべての人に平等に訪れる。誰も避けることはできない。

 死を前にしたとき、「信仰」を失った現代人が最後に頼り縋ることができるのは、あるいはその力をもって「死」を克服できる唯一のものは、「教養」ではないか。この本はこんな問いかけから始まるが、本書で語られるのは体系的な「死ぬための教養」ではない。古典から現代人の著作、科学からオカルト、日本から海外、そして小説、ノンフィクションの垣根なくあらゆる文献を引用し、「死」について様々な見方を提示する。一種の読書カタログであり結論は出ない。そこがもどかしい。

 

 「教養」を信じる著者が、竹内久美子とか宇宙法則とか、時たまオカルトの世界に片足を突っ込みかけるのが興味深い。「教養」と「宗教」の境界線ってどこなのだろう。哲学の究極の目的は「死ぬための準備」であると北野武は言った。江國滋は「死後」に意味を求めず、ただ死を「死」そのものとして客観的に見つめ続けようと闘病記を書いた。「死」に意味はあるのか、あるいは「生」に意味はあるのか。宗教と教養が時として重なるのは、まさしくこの共通の問いについて考え続けるからではないのか。

 

 引用される多くの文献をもって「死」について考えることができるという点で興味深い一冊。反面、あまり大層に打ち立てられた「教養」を期待しないように。この本は、あくまでカタログに過ぎない。