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何も知らずに見てください-映画『君が生きた証』レビュー(ネタバレあり)

映画

『君が生きた証』(2015・米)

大学で起きた銃乱射事件で息子を失ったサム(ビリー・クラダップ)。2年後、会社も辞め、ボートで暮らす自暴自棄な生活をしていた彼は遺品の中から自作のCDを見つけ、夜の酒場でギター片手に息子の作った曲を奏で始める。彼の演奏に刺激されたロック青年クエンティン(アントン・イェルチン)とバンドを組み、サムの音楽はしだいに大きな注目を集めていくが、サムには誰にも言えない秘密があった…。


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73点

 


ひとこと:

間違いなく良い映画だけど、俺の見方が間違ってました。

 

 



注1)この映画に少しでも興味がある方は、今週28日まで早稲田松竹で上映していますし、DVDレンタルも始まっているので、以下の文章を読む前に鑑賞することを強く推奨します。

注2)途中までは終盤の展開について触れずに進みますが、【警告】以降はがんがんネタバレしていきますのでご注意ください。

 

 



 さて、非常に語ることの難しい映画です。
 というのも、この映画についてなにごとか語ってしまうと、どうしてもこの映画の魅力を少なからず目減りさせることになってしまうからです。それは「ネタバレ厳禁」なんて生易しい言葉で処理できるものではなくて、そもそもネタバレという言葉を使うこと自体が適切かどうか悩んでしまう類の作品というか。

 なんでこんな奥歯に物が挟まったような物言いになるかというと、僕自身がこの映画に関して事前情報に少しだけ(具体的な内容には立ち入らない程度に)触れてしまったおかげで、結構早い段階で映画の「真意」に気付いてしまったから、そして、パズルの答え合わせみたいな感じで映画を眺めてしまったからなのです(点数が微妙なのはそのせい)。要は、僕みたいな犠牲者をこれ以上出したくないんです。

 この作品は、そういう「謎解き」的な見方をするべき映画じゃないです。むしろ、事前情報をほとんどシャットアウトして臨むべきです(予告編くらいは観てもいいけど、評論家の感想とかは一切遮断すべき。ツイッターで検索するなどもってのほか)。そのほうが、絶対に楽しめます。

 

 とりあえず未見の方に言いたいのは、これは「息子を失った父親が、音楽を通じて人生を取り戻していく」なんていう単純なお話では決してない、ということ。「どうせまたいつもの音楽人生再生映画でしょー」って舐めてる人こそ、観たほうが良い。マジで度肝を抜かれると思うので。


 監督はイリアム・H・メイシー。幅広い役柄で強い印象を残す名優ですね。本編にも、酒場のマスター役でちょいちょい顔を見せます(特徴的な髭面してるんですぐ分かる)。

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 64歳にして初監督に挑戦した彼ですが、低予算映画のお手本みたいな、小粒ながらピリッと辛い作品に仕上がっていて、充分合格点といえるのではないでしょうか。ジュリア・ロバーツ(『リトルマン・テイト』)といいドリュー・バリモア(『ローラーガールズ・ダイアリー』)といい、ハリウッド俳優が監督した作品って地味な良作が多い気がします(『幸せの教室』は除く)。


 うーん、未見の方に言えるのはここまで。今回は煮え切らないレビューですいません。とりあえずお金払って2時間費やす価値は間違いなくある映画なので、四の五の言わずに観てくださいホント。観たよーって方は下↓へどうぞ。

 

 

 



【警告】以下、重大なネタバレがあります。
未見の方は映画の面白さを大きく削いでしまう可能性が高いので、ここでバックをお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 




 中盤で明らかになる真相、それは
 サムの息子は「被害者」でなく「加害者」であったということ。
 すなわち、銃乱射事件を起こした犯人こそ、息子であったということです。

 

 大半の観客は「理不尽な暴力で息子を奪われて、お父さんかわいそう」って目で主人公を見ていたはずなので、中盤、「人殺し」とスプレーで落書きされた息子の墓が大写しになるショットでは息を呑んだと思います(実際、上映中に「ヒェッ…」って呼吸音が複数の席から聞こえた)。

 そうなると、これまで観てきた映画のすべてが根底から覆ります。なぜサムは自分が歌うことを恥じているのか。なぜサムは息子の元恋人から非難され続けるのか。なぜマスコミの取材は執拗だったのか。なぜ遺品を整理するまでに2年もかかったのか。なぜ息子は最初からいないものとしたのか…そして、観客のサムを見る目も180度変わってしまいます。息子の元カノの言うとおり、彼は「人殺しの父親であり、「人殺しが残した曲を演奏して拍手を貰っていい気になっている恥知らず」なのです。


 ここで、中盤までにサムたちが見せた素晴らしい演奏、感動がすべて虚飾にまみれたもの、おぞましい事実を見栄え良く塗りつぶしたものだという、あまりにも残酷な事実が観客に突きつけられます。真相を知ったクエンティンは激怒しバンドは解散、サムも再び音楽をやめてしまいます。この時点で「ステージで拍手喝采を浴びてエンドロール」なんていう甘っちょろいラストは、この映画には絶対に用意されないことが示唆されます。



 「作品と作者の人間性は無関係だ」とよく言います。
 それは実際その通りなのだけれど、自分を感動させた作品の作者の、目を覆いたくなるまでにグロテスクな真実に触れたとき、人はどう思うのでしょうか。本を破り捨て、CDを割りますか?それとも、自分をそこまで動かした作品を信じようとしますか?

 

 人殺しの作った曲を歌うことは「罪」でしょうか?
 その歌で笑い、涙し、心を動かされた人たちは「騙されて」いたのでしょうか?

 

 そしてもうひとつ、この映画が扱っているテーマ、それは加害者家族の「贖罪」です。
 他人によって自分の人生を滅茶苦茶にされたという点では、被害者家族も加害者家族も同様です。しかし加害者家族は一生十字架を背負い、被害者たちに許しを請いながら生き続けなければならない。彼らは死ぬまで、心から笑うことも、楽しむことも、安らぐことも許されないのです。なぜなら自分は「人殺しを育てたやつら」だから、罪を負うべき存在だから。彼らは生涯、世間からの非難にだまって耐え、人の目を逃れ、ひたすら「申し訳ありません」と唱え続ける人生を送るべきなのでしょうか?

 

 監督ウイリアム・H・メイシーは、きっと「それは違う」と思ってこの映画を作ったのだと思います。
 誰が作った曲だろうと、その感動に偽りなんかない。
 加害者家族が、ふたたび人生を歩んではいけない理由なんかない。


 
 終盤、クエンティンと別れたサムは事件現場へ行き、慰霊碑の前で涙し嗚咽を漏らします。これまで息子の罪から逃げ続けてきた彼はようやく、本当の意味で息子と向き合い始めたのです。

 ラストシーン、いつもの酒場で彼は「人殺しの息子が作った曲です」と告げ、客たちが騒然とする中で息子が未完成のまま残した曲を奏で始めます。曲の最後に、彼自身の書いた「俺の息子」という歌詞を添えて。
 客たちは、彼の演奏に決して拍手など送りません。怪訝な顔をする者、戸惑う者、汚いものを見るような目をした者。しかしその中に、険しい顔をしつつも涙する者、彼の演奏に確かに心を動かされる者もいます。その中には、酒場のマスターに扮した監督メイシーの姿もあります。

 このライブシーンをどう捉えるかで、この映画にたいする評価は大きく分かれるでしょう。
 「被害者」家族が一切出てこないあたり、偽善的だとする向きもあるかもしれない。

 だけど、この中途半端に投げ出されたようなラストにこそ、この映画の真価はあると思います。変にお行儀のいい「解決」なんかされない点に、この監督の誠実さが表れている。あなたは彼の「贖罪」をどう受け止めるのか。彼がふたたび人生を歩みだすことを赦すのか。喝采もされない、称賛もされない、彼の最後の演奏。その言葉には、たしかに真実が詰まってる。

 俺の息子。

 俺の、人殺しの息子。

 誰よりも愛していた、俺の息子。


 歌詞のひとつひとつが、痛いほどに皮膚に突き刺さる。すべてを観客に委ねるこのクライマックスは、震えるくらいに残酷で、狂おしいまでに優しく、そしてまばゆいまでに美しい。