ノラブログ。               

 
 
 
 
 

いつもと違う道で、見知らぬ誰かと出会う。


 大学時代の旧友と飲んだ。
 会うのが卒業以来の面子ばかりだったので、自然と近況報告が話題の中心となる。


 公務員になった者、結婚した者、独立開業した者、通信制大学で学び直そうと志す者、故郷に戻った者、某局の記者として冬の北海道で豪雪と格闘しつつ現場リポートしている者、革命家となり反政府運動に身を投じた者、美女と真理を求めてポーランドに旅立った者(こいつ(男)は俺のコスプレ写真を見て「抱かれたい」とかほざいていたらしいのでいつか殺す)等、各々愉快な境遇を辿っていることが分かり面白かったのだが、そんな中で一人浮かぬ顔をする者がいた。


 彼は野菜を売ったり畑を耕したりといった勤労に日々従事しているのだが、ひたすら同じ仕事を繰り返し、同じ人としか会話しない毎日に嫌気が差しているのだという。
 そんな悩み相談を受け、俺や他のメンバーは「日常にちょっと変化つけてみたら?」的ニュアンスで「いつもと違う道で帰ってみる」「一個前の駅で降りて歩いてみる」といった提案をしてみたのだが、そうアドバイスしている俺自身、あぁこれってすげぇ重要なことだな、と自分自身にも言い聞かせているのに気がついた。

 


 たいていの仕事はお賃金と引き換えに24時間の半分以上を拘束され、うんざりする作業ばかりやらされる。不満・苦痛を越えたやりがいや楽しみを見出だせるならいいが、そんな幸福な人はおそらく少数派だろう。本来的に不本意な労働に従事する俺たち社畜は、無限に周回運動を繰り返しつつ生きる意欲ばかりが漸減していくクソゲーをなんとか生き抜かねばならない。そこで、「いつもと違う道で帰ってみる」、すなわち「日常に変化をつけてみる」という行為に付加価値が生まれてくる。


 「いつもと違う道で帰ってみる」は、「積極性を持つこと」とも言い換えられる。別に帰り道の選択じゃなくてもいい。いつもと違う店でご飯を食べる。顔くらいしか知らない人に話しかけてみる。知らないアニメを見てみる。新しい趣味を始める。オフ会に参加してみる。何かしら自分の意思を働かせ、ささやかな非日常に足を突っ込む程度の好奇心と行動力を持つこと。この社会で生きていくにあたって、そうした態度は地味ながら不可欠なアプリケーションになるんじゃないかと思うのだ。


 彼は、われわれの提案にたいして消極的であった。
自然の流れに身を任せたい、人為的に生活に変化をつけるのは嫌だ」という。


 それは地獄に通じる考え方だと思う。人間の行いはすべて「人為的」に決まっている。それが自然か不自然かなんてのは当人の主観もとい好みに過ぎない。自然に身を任せていたら餓死するのがオチだ。われわれは火や石油や電気の力を借りなければ冬すら越せない弱い存在なのだ。
 

 

 ところで話はやや逸れるが、社会人になると本当に「出会い」がない。
 仕事以外で関わる人間の数が極端に狭まるため、すすんで人脈を開拓していかない限り、人間関係は半永久的に固定されたままとなる。クラス、部活、修学旅行などの行事、ゼミやサークルといったお膳立てが整えられた「学校」という機関が、いかに優れた「出会い」の場だったかということを、いまさらながら痛感する。

 

 昨今「出会い厨」なる言葉が流行だが、この単語の使用について、俺はやや懐疑的である。
 たとえばカイブやTwitterにおいて、女性レイヤーが見知らぬ男レイヤーから「かわいいですねぇ僕と撮影会しませんかドゥフフフwwwww」的なお誘いを貰ったとする。彼女は驚き呆れ、「薄気味悪い」「言動が痛い」「そもそもウイッグ被っただけじゃねえかこいつ」などの理由をもって仲間とともに彼を笑い、あるいは非難する。なるほど、ごく自然な流れである。


 しかし、「みずから積極的に交流を求めてきたこと」を非難の根拠とする人はおそらく少ないし、仮にいたとして、それは適当ではない。
 人との出会いは、少なくともどちらかが能動的に動かねば成立しない。あなたと、あなたの親友が初めて出会ったときのことを覚えているだろうか。どちらかがどちらかに「声をかけた」のではないか?「出会い」を-不順な動機ではないにせよ、何かしらの人間関係の進展を-求めたのではないか?

 

 日々の仕事にうんざりしている彼のように「自然に身を任せる」というのなら結構だが、不特定多数の参加者が集まるイベントやスタジオに行き、初めて会った人間と名刺を交換し、一緒にカメラのフレームに収まり、時には食事まで共にするこの趣味において「自然に身を任せる」ことなど可能だろうか?はじめてコスプレをして、同じ趣味の仲間をどうやって見つけたかを思い返して欲しい。自分は偶然性のみに頼っていると断言できるのは、自宅でひとり宅コスをし続けている者だけではないか?

 

 「趣味を出会い目的に使うのは不潔だ」という意見には賛同が集まる。そこに一定の理があることは否定しない。では相手の一次目的が出会いであると断定できる根拠は何か。そのジャッジを下す資格があるのは誰か。そこに明確な回答が用意できない以上、この批判も結局好みの問題であり、以前話した「俺はとんこつラーメンが嫌いだ」以上の説得力は持たない。

nora912.hatenablog.com

 

 もちろん、たとえば「ほとんどすべての人が不味いと思うラーメン」(砂糖をぶちまけたラーメンとかね)が存在するであろう以上、「ほとんどすべての人がみっともないと思う出会い厨」も存在しうる。しかし、彼が非難されるべき点は「みっともない」点であり、「出会い厨」だからではない。ラーメンに砂糖をぶちまける行為は非難されても、ラーメンを作ったこと自体を非難する根拠はないのと同様に。
 言ってしまえば、相手へのアプローチに成功したものは「出会い厨」とは呼ばれない。失敗したものだけが「出会い厨」なのだ。

 

 この手の議論を深めていくには字数が足りないので、このへんにとどめておく。意見等あったらコメント欄やTwitterなどに書いてもらえると嬉しい。
 一応断っておくが、先に挙げたような「出会い厨」の行動を擁護する気はないです。ただ批判の根拠をみんな無意識にスライドさせてるんじゃないかって指摘がしたかっただけであって。

 


 なにはともあれ、いつもと違う道で帰るのは結構楽しいのでオススメである。
 思わぬ住人と出くわすことだってあるのだし。

 

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