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【書評】「文化部」系物語を読むー『げんしけん』と『ぼくは落ち着きがない』

 

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

げんしけん(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 げんしけん木尾士目講談社アフタヌーンKCの連載開始が15年前と気づいて驚く。この作品が読み継がれ、一度は完結しつつも時代の要請にあわせてリバイバルし、いまや大学オタク系サークルにおける一種のバイブルと化しているのは、作品自体が非常に優れたものであったことと同時に、こうした「文化部」的空間を切り取った作風が、世の多くのライトなオタクたちの共感を呼んだことが理由として挙げられるだろう。

 

げんしけん』の魅力は、その掴みどころのないリアルさにある。げんしけん』が描くのは『ヨイコノミライ』のような青春期の残虐さでもなければ、『辣韮の皮』『幕張サボテンキャンパス』に代表されるギャグへと昇華された日常ネタでもなく、『稲中』みたいな、破天荒なギャグとその裏側にひそむ哀しみの応酬で繰り広げられる青春群像劇でもない。『げんしけん』はただ「いま」「そこにあるもの」を淡々と描写し続ける。確実に存在するが、けれど掴みどころのない「いま」は、時として笑いを誘ったり、あるいはひやりとさせられたりするが、物語の骨格を揺るがすには及ばない。げんしけん』は「日常」「日常」として放り出したまま、ただ眺め続けるのだ。

 

ゆるゆる続く日常の物語、なんて一言でまとめるのは失礼にあたるだろう。あまたの「日常」系漫画で意図的に無視される事柄―記憶から一瞬で過ぎ去っていきそうな小さな事象の切り取り方、筋も事件もない中でそれでも年月とともに変化していく登場人物の心理描写、そしてタイムリミット付きの「日常」の最終的な落とし方など―について、この作品はずば抜けて意識的であるし、そしてそれらを描くことに成功しているからだ。げんしけん』のリアルさは、楽しさ、面白さ、残酷さ、やりきれなさ、すべてに対して「わざとらしく」処理することなく真摯に向き合い、「当たり前」を「当たり前」として描き続けたがゆえの賜物である。

 

 

ぼくは落ち着きがない (光文社文庫)

ぼくは落ち着きがない (光文社文庫)

 

 長嶋有の小説『ぼくは落ち着きがない』は、その作風および作品構造について『げんしけん』と非常に近いものを持っている。すなわち本作は、よくある青春小説的なわざとらしさを極力排除し、ただ「いま」「そこにあるもの」を描写することに徹している。ゆえに、本書には筋の通った大きな物語は存在しないし、登場人物たちの心理や行動は時として非常に理不尽であるし、また事件も唐突に始まって終わり、あるいは解決されずまま宙ぶらりんのまま終焉を迎える。

 

たとえば前半、あるキャラのどう見ても何気ない一言がちょっとした事件に発展し、それは解決されないまま原因を作ったキャラはしばらくフェイドアウトする。後半、主人公がある部員から嫌われ始めるが、その詳しい理由は語られない。別の部員が不登校になるが、その理由も本人の口から語られることはなく、またそれ自体が物語の軸となるわけではない(不登校が他の部員たちの心理に影響を与えたようには見えない)。ラスト、破綻は唐突に訪れ、多くの伏線が放り投げられたまま物語は終焉する。

 

まとまりがない、とも思える。だけど、これってものすごくリアルな青春劇じゃないだろうか。考えて欲しい。「伏線」を回収し「事件」が解決され、そして「大団円」を迎えた幸福な青春時代を送った人が、いったいどれだけいるというのだ。みんな「伏線」は放り投げられ、「事件」は結局解決されず、そして「日常」はぷっつり途切れたまま、新しい「日常」へと移行したのではないか。みんな、「何も起きない」けれど「落ち着きがない」青春を送ったのではないか。

 

自分の知らないところで世界が勝手に動き、そしてその説明をすることはできない。誰もが他人に、あるいは自分自身にたいして掴みどころのなさを感じ、その曖昧さを脅かさない範疇でしか干渉しない(できない)。そうした理不尽さを含めた「日常」の中で、みんなが各々「自分」というキャラを演じてる(陳腐な言葉だが)がゆえに成立する、ライトなオタクたちの「文化部」的空間。本書で描かれるそれはまさしく、『げんしけん』と通じるものだ。

 

げんしけん』的世界を描くことに本作はある程度成功している。ゆえに一定の評価は与えられるべきだが、それでもその技術は、たとえば保坂和志「日常」へのアプローチほど巧みではない。そうした意味で本作はまだ未熟さが残るが、しかしその試み自体は意欲的であるといえよう。よりブラッシュアップされたこの作者の青春小説を読みたいところだ。

随所にマニアックなネタ(「僕がもっといいポスター描いてきますよ」の元ネタに気付いたひと、どのくらいいるんだ?)が仕込まれているので、特に20代には楽しく読める。単行本はカバー裏にもちょっとしたサプライズがあるんで、読み終えた方は是非。

 

※この書評のはもともと2011年に書いたものである。その後『げんしけん』は連載を再開して二代目となり、作風を変化させつつ2016年に大団円を迎えた。それを踏まえてもう一度『ぼくは友達が少ない』と比較してみたいものである。