『幕が上がる』―日本映画史に残る傑作青春映画の誕生
「ももクロ」こと「ももいろクローバーZ」について、ぼくは何も知らない。
どのくらい知らないかというと、そもそも「ももクロ」という単語が5人組のアイドルグループを指すということすら理解していなかったほどである(少女マンガか何かのタイトルだと思ってた)。
ももクロ主演のこの映画も、当初はまったく観に行くつもりなどなかったのです。
悪いけどアイドルには興味ないし、だいたい監督が『スペーストラベラーズ』『少林少女』『踊る大捜査線』(劇場版×3、1作目は許す)と世紀の駄作を量産してきた本広克行である。モー娘。を主役に据えて悲惨な結果に終わったあの迷作アイドル映画『ピンチランナー』の悪夢がまた繰り返されるのかとおののいていた。
が。
映画が公開され、次々と集まる数々の高評価。
山田洋次、大林宣彦、川本三郎といった名だたる映画人たちが惜しみない賛辞を送り、これまで手厳しく本広作品を批判してきたライムスター宇多丸ですら(批判点はあれど)「正直うるっときた」と述べるにいたって、これはいかん観に行かねば、と慌てて新宿バルト9に駆け込んだというわけで。
というわけで、前口上ここまで。
『幕が上がる』(2015・日)
95点
ひとこと:
素晴らしい青春映画でした。
本広監督ごめんなさい!
いままで舐めてました。ごめんなさい!
あなたちゃんと良い映画作れるじゃないっすか!ごめんなさい!(偉そう)
いやはや、とにかくびっくりするほど普通に「良い映画」でした。
観客の反応も上々で、同じ列の端っこにいた女の子なんか映画が終わったあともずっと泣きはらしてました。ぼくも正直、涙こらえるので精一杯のシーンが無くもなかったり。
ストーリーはいたってシンプルで、ももクロ演じる弱小演劇部の高校生たちが、風変わりな新任教師の指導のもと、一丸となって全国大会を目指す、というオーソドックスな青春部活もの。
何に感心したって、ももクロの演技の上手さ、自然さですね。
ももクロが演技しているところを他に観たことがないので比較はできないけれど、いわゆるアイドル演技じゃなくて、ちゃんと彼女たちが「普通の女子高生」に見える。これって凄く大事なことですよ。普通の女子高生として見られるからこそ、彼女たちの一挙手一投足が等身大に捉えられるし、自分に重ねられるし、彼女たちと一緒に喜んだり、泣いたり、笑ったりできるんだから。
最初に言ったようにぼくはももクロを知らないし、さらには学生演劇の世界だってまったく知らない人間だったわけです。それがどうしたことか、映画を観終わったときには彼女たちがたまらなく愛おしくなっていたし、学生演劇だってすごく輝いた世界に見えてきたわけで。それだけでもう、この映画は「成功」だと思うんです。
調べてみると、本作は原作の平田オリザ氏(演劇界の超有名人)が製作にも関わっていて、彼女たちはワークショップ形式でかなり長い時間をかけて徹底的に演技指導を受け、現場では台本を開くこともないほど完璧に台詞を叩き込んだそうです。
ワークショップでの演技指導といえば、青春映画の歴史を塗り替えた大傑作『桐島、部活やめるってよ』(2012・吉田大八監督)を思い出します。そういえば本作も『桐島』同様、脚本は喜安浩平氏が担当。ももクロ+平田オリザ+喜安浩平と、このそうそうたる顔ぶれを観るだけでもお膳立てはばっちり、あとは監督の力量しだいだなと想像できます。
さて、そこで本広克行監督です。
『踊る大捜査線』を世に送り出した立役者であり、近年ではアニメ『PSYCHO-PASS』の総監督としても名高い本広氏ですが、映画監督としての彼の評価は決して芳しいものではありませんでした。
それは、あまり良い脚本に恵まれなかったという不運も大きい(だから、脚本がしっかりした『サマータイムマシン・ブルース』だけは抜きん出て評価が高い)んだけど、何より本広氏の演出部分に問題が多かったからだと思います。
本広演出の特徴は、登場人物が会話してる後ろでモブがワチャワチャやってたりするお遊びとか、オタクネタをやたら入れてくるとか、役者に異様なハイテンションで演技をさせるとか、あと頻繁にレール移動するカメラワークなどです。『踊る大捜査線』の、あの一年中学園祭の準備をやっているような雰囲気(byライムスター宇多丸)といえば分かりやすいかな。
良く言えばサービス精神豊か、悪く言うと過剰なこれらの演出、アニメやドラマならともかく、劇場映画という媒体とは食い合せが悪いのか単にノイズになってしまうことが多い。これが最悪の形で表出したのが『踊る大捜査線THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』で、小ネタに頼りすぎた結果、映画自体がただの小ネタの連続「だけ」になってしまい、本筋がさっぱり分からないというカオスに突入していました。
では本作『幕が上がる』では、どうか。
冒頭で焼かれる台本のタイトルがセルフパロディになっているとか、相変わらずの「うどん」ネタとか、観客席にゲスト俳優がいるとか、本広的なヌルい演出はちょこちょこ顔を出していてたまにイラッとはするんだけれど、全体的には自分の過剰さを封印し、堅実かつオードソックスな画作りに努めているのが伝わってきて、結論としては非常に好感を持ちました。
その一方、たまに顔を出す本広演出がプラスになっている箇所も確かにありました。たとえば中盤、主人公さおりが寝っ転がって『銀河鉄道の夜』を音読してる後ろで家族が気づかれないように息を殺して見守る、というくだり。ここは監督のコミカルな持ち味が上手く映画とドッキングしていて、きちんと楽しくてクスっと笑える場面になっていました。終盤近くのさおりとお母さんの会話シーンも、シリアスになりすぎずほっこり泣かせる演出など、見事だと思います。
さて、ここで強調しておかねばならないことは、この映画における主人公たちの成長物語は、そのまま「映画」そのものの「成長」とシンクロしているということです。
たとえば冒頭から中盤まで、さおりのモノローグがちょっとウザいくらい頻繁に出てきて「なんだか説明的だなぁ」と感じるんですが、これが後半どんどん減っていく。さらに、先に挙げたような本広的な小ネタとかギャグも、後半になるにつれて加速度的に消え、きわめてまっとうな青春映画テイストに様変わりしていくのです。
モノローグが消えるのはもちろん主人公自身が成長し、自信をつけていくからなのですが、不思議と主人公とシンクロするかのように、映画自体が、あるいは監督自身が「成長」し「脱皮」していくのが、この映画の最大の特徴なのです。
ひとつ言えるのは、この映画は間違いなく本広監督のキャリアにおけるターニングポイントになるだろうということ。
本広監督はここ数年、監督業を辞めようか思い悩んで紆余曲折あったあげく、最後に辿り着いた先が「演劇」だったそうです。だとすればこの映画は、まさしく監督がもがき苦しんだ末に見つけた「答え」でしょう。
ももクロが大舞台に立ち、まさしく『幕が上がる』ところで映画は終わります。
そしてそれは、この映画が、あるいは本広監督自身が「脱皮」した瞬間にほかなりません。
いま、映画監督・本広克行の『幕が上がる』のです。
(最後まで偉そう)