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【書評】貫井徳郎『愚行録』:悪意のない悪意が跋扈する、愚か者たちの世界へようこそ

 

愚行録 (創元推理文庫)

愚行録 (創元推理文庫)

 

 


 閑静な住宅街で、一家4人が惨殺される事件が発生。幸福そうな家族はなぜ殺されたのか。隣人、友人、大学時代の同級生…さまざまな人々が語るエピソードによって、家族の隠れた姿、そして真相が浮かび上がっていく。

 


 登場人物の「語り」によって文章が構成され、各章ごとに語り手が変わる。形式としては恩田陸の『Q&A』に近いが、あちらが「謎」を深めに深めた結果収集がつかなくなり、最後はあらぬ境地(笑)へ達してしまうのに対し、こちらは一応きちんとミステリしており、最終的に真相も提示される (『プリズム』みたいになったらどうしようかと何度もヒヤヒヤした)。このインタビュー形式そのものがちょっとした仕掛けになっていて、ラストの種明かしにダイレクトに繋がっているのもさすが手練の技である。

 明かされる真相自体は大したことがない。犯人も動機も意外でもなんでもない。本筋以外ちょっとしたサプライズがあるが、こちらもせいぜい付録みたいなもので、ミステリとしてよく出来ているとは言えない。
 しかし、本書の真髄は結果ではなく過程にあるとぼくは見る。被害者家族について語るさまざまな人間、彼ら彼女らの言葉の中にちらつく何かとてつもなく嫌らしいもの、「悪意に満たない悪意」とも呼ぶべきもの。これを見せてくれるのがこそがこの小説の醍醐味だ。

 インタビューされる人々の多くは、被害者に敵意を持っているわけではない。むしろ善良な被害者が理不尽に殺されたことに怒り、悲しんでいる「普通の」感覚を持った人間たちだ。
 にもかかわらず、被害者について語る人々の口調は、奇妙にいきいきとしている。「別に悪口を言うわけではないんですけどね…」「こういう一面もあるってだけなんですけどね…」という前置き付きで始まる、被害者たちの「裏」のエピソード。そこでは、「善良」という皮を剥がされた被害者への嫌悪感と、それを傍観する語り手の自己弁護が、奇妙に混合されたいびつな形で読者へと提示される。

 「悪意」をもって語るわけではない。けれど、そこにはやはり明確に「悪意」が介在する。このへんの、人間の嫌らしい、救いようのない部分、どうしようもない部分の描き方が嫌になるくらい上手い。
 『愚行録』というタイトルが断罪しているのは、いったい誰なのだろう。「裏の顔」を見せる被害者たちか、嬉々としてそれを語る周囲の人々か、あるいは事件の犯人か、それともこの本を読む読者か。

 

 悪意のない悪意、それは単純な割り切りができないだけ、より厄介でグロテスクな代物なのかもしれない。格言によれば、人を地獄へ導くのは、決して純粋な「悪意」ではないのだから。