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【書評】時代と対峙する作家の焦燥感ー村上龍『イン・ザ・ミソスープ』

 

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

 

 

 年の瀬の歌舞伎町を舞台に、不気味なアメリカ人・フランクとその案内をする日本人青年・ケンジの目を通して、日本社会の病理性を問う。

 

 この小説が話題をさらったのは、これが新聞に連載されていた当時にリアルタイムで神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)が発生したこと、ならびにそれに対して作家・村上龍が、「想像力」(小説)と「現実」の戦いについての声明ー曰く、「そういうようなこと(戦い)は、二十二年間小説を書いてきて初めてだった」ーを出したことが大きかったと言われている。宮台真司のような学者のみならず、龍のような小説家にとっても、97年は「何かが壊れ始めた」年だったようだ。

 

 ゆえにこの小説は、作家・村上龍の一種の総決算としても見ることができるし、また意地悪く言えば破綻と見ることもできる。いずれにせよ、この小説は強い批評性を持つ。龍の小説がそうした性格を持っていることはこれまでの作品からも明らかであったが、本作では社会「批判」が限りなくストレートに全面に押し出される。それを面白いと見るか醜悪と捉えるかで、本書に対する評価は大きく分かれるだろう。

 

 この本を読んで感じるのは、デビュー以来常に時代と向きあうことを自らに強いてきたひとりの作家の、現実世界への戸惑いと強い焦燥感だ。多くの場面がフランクやケンジの口を借りた「日本の異常性・特殊性」への言及で占められているのは、作者自身が「現実」に戸惑い、「想像力」との折り合いをどうつければ良いのか分からずにひたすらもがいているようにしか見えない。作者の言葉を借りれば「わたしは何か汚物処理のようなことを一人でまかされている気分になった」のだ。

 

 そういうわけで、もちろん水準以上の小説ではあるのだが、本書はかなり歪んだ、あるいは不細工な継ぎ足しがなされた芸術作品を見ているような印象を読者に与える。出来自体に不満が残るし、また先の声明文を読む限りでは、龍は単に思い上がっているだけ、一人相撲をとっているだけに過ぎないとも取れる。ならば、本書に読む価値は無いのだろうか。

 

 そうではない。本書の小説としての出来そのものよりも、そうした作者の葛藤、焦燥、自意識の結果としてこの物語が紡ぎだされたというその事実、それこそがこの『イン ザ・ミソスープ』が読むに値する作品である最大の理由なのだ。時代と対峙した作家が、現実と想像力の間でどんな答えを出したのか、それにさえ興味があれば、この小説はとびっきり面白く読めに違いない。もっとも、これは僕の想像だが、たぶん村上龍自身はこの小説は嫌いなんだろうけれど。