ノラブログ。               

 
 
 
 
 

【雑記】リア充最終戦争

 

 「NORAさんって次郎太刀(刀剣乱舞)みたいなウェーイな感じの人だと思ってました」と、まったく別の場所で知り合った方2人から同じ日にそれぞれ言われた。

 


 断じて違うのですッ!
 リアルの知人ならご存知のとおり、次郎ちゃんの格好してても中身は江雪左文字である。コミュ障である。ネガティブである。

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 蛍丸「はじめましてNORAさん、これ名刺です」
 次郎「…うれしくありません」

 

 蛍丸「え、えっと…写メ撮りませんか」
 次郎「…拒否権は、ないのでしょう」

 

 蛍丸「あ、あの…」
 次郎「少し…一人にして下さい…」

 

 蛍丸「………」
 次郎「………」
 蛍丸「………」
 次郎「和睦の道は…ないのでしょうか…」

 

 


 そう。俺の本来のノリは、限りなく非リア的であるはずだ。


 そもそもだね、リア充という言葉自体、こんなに広まるはずじゃなかったのだよ。
 06年だっけ?07年だっけ?あの頃この言葉はまだ、2ちゃんねるの大学生活板の中でだけ通用するスラングだったのだ。「充」の基準も今よりずっと低くて、布団から起き上がって大学に行く気力があるだけで「リア充」の栄誉に値したのだ。それがどうだ、今やリア充という概念はウェーイと叫びながら一気飲みに興じる男ども女どものおもちゃにされ、俺たちのはるか手の届かないところに旅立ってしまった。

 

 「リア充=チャラい」「非リア=オタク」みたいな対立構造がいまだによく語られるが、チャラくてお洒落でコミュ力高いオタクとか今や普通に散見されるので実は正確ではない。本来の語法に立ち返って言えば、現実世界で外に出て誰かと会話をしている人間はみなリア充である。すなわち、われわれが家の外で関わる人間はみなリア充である。なんてこった、世界はリア充に占拠されてしまった!

 

 冒頭であんなネタを書いておきながら、自分も世間一般の基準からいえば(生きるスタンスとしては)社交的な人間だとは思うのだけれど、実家に帰った際、親族の会合の席において無知で無学で無策な兄が「俺はここにいる誰よりも友達が多い」と高らか豪語しているのを見ると、こんな恥知らずの馬鹿には死んでもなりたくないぜファッキュー!という気持ちにもなる。
 そのくせ周囲に人がいないと不安になる小心者だし、たまに厭世的になるときもあって、定期的に孤独の時間を作らないとやってらんない。面倒臭い人間だなぁ。

 

 江雪さんネタはさすがにギャグですが、俺が知らない人ともそこそこ普通に話せるようになったのって結構最近であって、やはり本質的には自分は非リア属性なのです。その根底にはスクールカーストの下層にいた人間としての、リア充(=学校のクラスの中心人物)的なものにたいする嫉妬がある。わかりやすく言うと「いじけた」感情、気取った言葉を使うとルサンチマン。これはいくら今後の人生でリア充を気取ろうと、金持ちになろうと、愛人を2桁作って囲おうと矯正できるものではないし、一生付き合っていかねばならぬ気質なんだと達観している。

 

 こう言うとなんだか大層な決意表明に聞こえるが、実際はたいしたことない。ウェーイ系の友達とか普通にいるし、その中には面白い奴とか良い奴もいるし、彼ら個々人にたいして悪意を抱くというわけではまったくない。ただ、自分の脳内議会の勢力として、依然「非リア党」は大きな勢力を占めている。コスプレ党と連立を組んで、かつ時代に合わせて外交政策を変質させているとはいえ、議会が保守勢力優勢であることには変わりない。そういうこと。

 


 ところで、もし世界中の非リアが武装蜂起してリア充殲滅作戦とか決行して、世界からリア充が滅ぼされたとして、そうなるとたぶん今度は勝利した非リアのうちの上層がリア充に変質してしまうと思うんですよね。で、次はその新リア充を滅ぼして、以降はその繰り返し。最後の2人になるまでその戦いが続いたとして、人類最後の2人のうちのどちらがリア充でどちらが非リアになるんでしょうか。その2人がくっついて新しい命が生まれたら、世界から非リアが消滅してしまうのでしょうか。非リアという相対視点を失ったリア充は、果たしてリア充たり得るのでしょうか。

 


 そんなことを考えていたら夜も更けてきた。
 ひとつ言えるのは、リア充はそんなくだらんことを考えて時間を潰したりしないだろうということだ、多分。