ノラブログ。               

 
 
 
 
 

コスプレを始めて4年経ったので、振り返りながらいろいろ書いてみる。

 

 コスプレを始めて良かったことのひとつは、多くの人と知り合いになれたということだ。

 

 もちろん、コスを始める以前から同人などでそこそこ敏活に立ち回っていたため、それを介してできたオンラインの友人はいたし、今なお付き合いが続いている人も多い。
しかしコスで知り合った人びとの多くは、他の趣味とは明らかに異なった特質を持っていた。

 

 コス「ならでは」の知り合いの特徴は――“特徴づけられない”ことだ。

 

 典型的なオタクそのものといった風貌の者。飄々とした今時の大学生風の者。モデルのように瀟洒な雰囲気を漂わせた者。会社では善き上司であり家庭では善きパパといった風体の者。いまだ格子のついた病院に収容されていない事実に疑問を抱かざるをえない、エキセントリックな者。
 一見これといった関連性が見いだせない人たちが一堂に会し、コスプレという嗜好、作品という共通項を通して文字通り「あわせ」てしまうところにこの趣味の面白さがある。

 

 無論、他の分野においても集団を構成する人員というのはある程度バリエーションに富んだものだが、少なくとも自分の経験および周囲を見渡してみて、ここまで多様なバックグラウンドを持った人間が、作品の嗜好という細い糸一本を繋いでひしめき合っている構図というのも珍しい。

 


 さて、そんなこんなで足掛け4年ほどコスプレという趣味を続けていく中で、俺の周辺も少しずつ変わっていった。


 俺がコスプレで出会った人たちは、当然ながら俺がコスプレをしていなければ出会わなかったであろう人たちであり、コスプレを始める前と比べて俺という個人およびその環境は否が応でも変容していく。ふと後ろを振り返ってみれば、以前の自分では考えられないような言動、行動、思考をしていることがままある。人間は環境によって作られるイキモノである。環境が変われば人も変わる。字面を見れば当たり前だが、いざ対象を自分に設定し仔細に観察すると、なかなか面白いものだと感じられる。

 


 コスプレを始めた頃の写真を見返すと、誰しも気恥ずかしい思いをする。
 それは、単にメイクやウイッグセットが未熟だからという理由だけではなく、コスプレという趣味における自らの立ち位置や方向性が定まっていないがゆえの混乱や戸惑いが、写真を通じて思い出されるからではないかと思う。要するに俺がタイムマシンを使って小学生の俺に出会ったら、間違いなく目の前のおそ松ヘアのクソガキをボコボコにしているだろうということだ。できれば直視したくないのだ、若き日の自分というものは。

 

 いま「立ち位置」とか「方向性」とか仰々しい言葉を使ったが、別に大層なことを言ってるわけではない。「仲間内でこじんまり楽しもう」とか「造型に命かけちゃうぜ」とか「でかいイベントいきたい」とか、すなわちドラクエにおける「ガンガンいこうぜ」「いろいろやろうぜ」「いのちをだいじに」程度のスタンス、心構えについて話している。

 人が趣味にハマる理由、趣味を続けていくスタンスなんてさまざまであって、そこに善悪や上下はない。「ガンガンいこうぜ」派が「いのちをだいじに」派をディスる理由はないし、その逆もしかり。

 

 


 ところで、そう言う俺のスタンスはなんだろうか。

 

 自分ではよく分からない。こうと決めた覚えもない。そしておそらく、大半のコスプレイヤーも同じなんじゃないかと思う。明確なスタンスなどはなく、なんとなく楽しいからやっている。長文日記を書くのも、時に妙ちきりんな女装をするのも、俺が楽しいからだ。
 キャラ付けかって?キャラ付けに決まっておろう。無色透明のネット空間においてキャラ付けされていないアカウントなど、2ちゃんねるの名無しさん以上の存在意義など持ち得ないではないか。

 

 少なくとも今のところはこれでいいのだとも思う。今後も、ほどよく自己陶酔しながら好き放題にアホなことをやりたい。嫌悪感を持つ人はそっと離れて欲しい。面白がってくれる人はどうぞ消費して欲しい。その反響のスケール、消費のダイナミズムこそが俺の原動力であり、財産である。

 


 好きにやりたいのだ。たかだか趣味だ。これでおまんま食ってるわけじゃないのだ。


 以上、5年目に入った面倒なアラサーコスプレイヤーの戯言。うふ。

 

 

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