ノラブログ。               

 
 
 
 
 

「出産クラウドファンディング」の何が問題なのか

 

「出産クラウドファンディング」というのが巷でちょっとした騒動を起こしている。

 

要約すると、渋谷でアイスを配ってそれを記事にするなどしている意識の高いブロガー大学生の彼女がひょんなことから妊娠してしまい、色々すったもんだしたあげく産むことになり、それにかかる費用をみんなカンパしてね!って企画らしい。
これに対して「子供がかわいそう」「人生舐めすぎ」「出産にそんなに費用かかんないよ」「アホ」「乞食」「バイトしろ」「そもそも避妊しろ」「アイコンが寒い」などの批判が湧き上がっているという。

 

 

 

単純な罵詈雑言を除けば、多くの人はいわゆる倫理的、道徳的問題を批判の対象としているようだ。

 

クラウドファンディングをこういうことに使うべきではない」
「子供は一生、クラウドファンディングで産まれた子として生きていかざるを得ないと分かっているのか」
「制度の勉強もしておらず考えが甘すぎる」
etc。

 

なるほどいずれも理解できる。

 


だが、俺のスポットはちょっと違っていて、この騒動の論点は、こうした情緒的な批判とは別のところにあると思っている。(つまり、こうした批判は個人的にはわりとどうでもいい)

 

 

 

 


出産クラウドファンディングの最大の問題。
それは

 

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そう、

このひと面白くないのである。

 


言い換えると、


このひとに投資して、このあと何か面白い展開が起きそうには、とても思えないのである。

 

 

 

見ず知らずの人間にたいして出資するには、エモーショナルな要素が必要である。
たとえば


・かわいそう(例:難病でこのままでは余命幾ばくもありません、手術代が必要です)
・やべえ(例:危険な法案が成立しようとしています、反対活動の費用が必要です)
・おもしろそう(例:みんなから集めた金を使って今までにないアート作品を作ります)


とかね。

 

今回の企画について言えば、特に緊急性があったり、生活に密着した重大事だったり、切羽詰った状況でないのは明らかだ。
となれば、開き直ったエンタメとしての要素、「おもしろそう」要素が絶対に必要なはずある。

 

例えば、この企画を立てたのがホリエモンとかヨッピーさんだったらどうだろう。
もちろん先に挙げたような観点から批判の嵐に晒されるのは同様だろうが、お金自体は普通にあっという間に集まってしまいそうである。この人であれば、集めた費用を使ってなんか面白いことを起こしそうな気がする。実際に起こすかどうかはともかく、そう想像できる程度には信頼や実績がある。そう考える人は少なくないはずである。

 

このひとには、それがない。
言い換えれば、コンテンツ力がない。

 

ブログを読んでも、ツイッターの受け応えを見ても、面白さの種の欠片すら見えない。
予定通り費用が集まったとしても、(最大限に好意的な未来予測をしたとしても)普通にお金を使って普通に出産し、普通に子供の写真をアップしてそれで終わりだろう。

 

お金を出してもらうとか、時間を取って会ってもらうというのは「重い」ことである。
相手の一部を「貰う」わけなのだから、リターンという意識は必ず持たねばならない。
出資者に対する今回の企画のリターンは「子供の成長過程報告」とからしい。
働いて金を返せとか俺にガキの名前をつけさせろとまでは言わんが、もう少し、なんとかならなかったのだろうか。

 

 

誰もリターンの見込めない投資なんかしたしない。
多少なりとも採算を度外視して支援してくれるのは、親族か、仲の良い友人くらいのものだ。
だったら普通に周囲の人間を頼り、お金を借りればいい。クラウドファンディングなどでなく。
その人たちに子供の笑顔を見せてあげればそれでいいではないか。

 

 

結局のところ、出産もクラウドファンディングも、この人の身にまとった装飾でしかない。
スポーツカーや服のように「俺スゴイでしょ?」「かっこいいでしょ?」「斬新でしょ?」と周囲にアピールするためのアクセサリでしかない。

 

 

このひとの目は、産まれてくる子供や、それを助けようとする人たちには向いていない。自分にしか向いていない。


だからつまんないんだよ。