観て良かった映画、というものがある。ー『その街のこども 劇場版』
先日、部屋の掃除をしたところ、3年前の今日に書いたメモが出てきた。
この日僕は大学近くの美容室で髪を切っていて、あの震災に遭遇した。もちろん東京なので直接的な被害は無かったのだが、揺れている間はこれまでの生涯で最悪の恐怖を味わったし、テレビやTwitterを通して刻々と伝えられる東北地方の惨状は、何かとてつもないことが現実に起きているのだ、という認識を抱かせるに充分なものであった。ほどなくして高田馬場駅は封鎖されて帰宅難民となり、駅前のマックは携帯の充電を求める人でごった返し、大学キャンパスが避難所になっていると聞くや駆け込み、級友の顔を見て少し安心するなどし、日付が変わる頃にようやく電車が復旧して帰途についたのであった。
こんなメモを書いたこと自体すっかり忘れていたわけだが、なんでこんなもの書いたのだろう?たぶん不安でしょうがなかったのだな。ひたすら自分の行動や震災の状況を記録し続けることによって、僕はギリギリ理性を保とうとしていたのだと思う。
で、あれから3年である。
ついさっきまで僕は『その街のこども 劇場版』を観ていた。
この映画は2010年1月17日にテレビ放映され、その後再編集のうえ劇場公開された。阪神大震災を背景として、被災時に子供だった2人の男女ー「その街のこども」ーが、追悼集会に向かうために深夜の神戸を歩く姿をドキュメンタリータッチで描く。
世の中には「面白い映画」がある。「感動する映画」というものもある。
この映画はそのどちらでもないかもしれない。ただしこれだけは言えるだろうー観て良かった映画である、と。
主演の2人(森山未來、佐藤江梨子)は実際に震災時に神戸に住んでいた、まさしく「その街のこども」であり、また2人にはいつカメラが回っているかを知らせないまま演技をさせていたという。ラスト近くに映し出される追悼集会の映像は実際のー2010年1月17日のー集会の映像であり、その日の夜の放送に向けて放映1時間前まで編集を続けていたという、限りなくリアルに作りこまれた、とんでもない作品である。
2人はいずれも完璧に近い演技で、どこまでが台本でどこまでがアドリブなのか、普通の観客として観ているぶんにはさっぱり分からない。モキュメンタリー(セミドキュメンタリー)映画としては最高峰なのではないかと思う。彼、そして彼女は震災にたいして饒舌に語るわけではない。積極的に問題提起したり、説教をかますわけでもない。ただ、ひたすら歩くという行為の合間に、ふと「震災」の影が姿を表わす。時に恐ろしい形で、そして時に、限りなく温かい形で。
震災は誰のせいでもない。言い換えれば、誰にも怒ることができないということだ。とてつもない理不尽、とてつもない絶望に遭遇したとき、それでも生き残った、「生き残ってしまった」人々は震災にどう決着をつけ、何を道標に生きていけば良いのか。この映画はその「答え」を示してはくれない。だが、何かひとすじの希望というか、小さな小さな光を見出してくれる。
終盤、森山未來が手を振り返すシーンで、恥ずかしながら僕は号泣してしまった。人は強くはないが、それでも決して弱くはない。本当に、本当にどうでもいいような日常の事象ーちょっとした優しさ、気遣い、共感、人との触れ合いーそうしたものが僕たちを生かしている。僕たちはどうでもいいことの連続によって生かされている。そしてそのことが、ささやかではあるけれども、けれど確かな希望となってこの映画では示される。
阪神大震災からは、まもなく20年を迎える。東日本大震災からはまだ3年しか経っていないが3年も経ったとも言える。何が起きようと時は過ぎていく。宮城や岩手、福島の「その街のこども」たちが成人し、大人になり、姿を変えた街を歩く日はいずれやってくる。
とんでもない理不尽が、絶望がこの世にはある。
それでも人は生きていく。生きていくことができる。
この映画は、それを教えてくれる。