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【新作映画レビュー】『ミスター・ガラス』は『レディ・イン・ザ・ウォーター』の素晴らしき改作であり快作である!



【2019年:9本目】

ミスター・ガラス

 

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100点

 

 




ひとこと:
ありがとうシャマラン

 

 

 

 


【ネタバレ注意】
以下の文章は『ミスター・ガラス』ならびに『アンブレイカブル』『スプリット』『レディ・イン・ザ・ウォーター』の結末に触れています。『アンブレイカブル』3部作は必ず、『レディ・イン・ザ・ウォーター』もなるべくご覧になったうえでお読みください。

 



この映画についてはさぁ、いろんな人、それこそ世界中のシャマラニストたちがすでに各々興味深い考察を書いてくれているわけで、もうそれ読んでくださいってことでいいんじゃねえかなと思うんだけど、まあ書くわな。書かずにいられないわな。
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最初の注意書きをくぐり抜けてここを読んでいる人は当然ストーリー紹介なんか不要なはずだし、ヒーロー論、ヴィラン論についても、俺なんかよりはるかに詳しい人が良い文章を書いてくれているのでそっちに譲る。今回はあくまで、この『ミスター・ガラス』という世界の“創造者”、すなわち監督M・ナイト・シャマランにとってこの映画はなんなのか、具体的に言えば、なぜシャマランは偉大なのかという一点に絞って書いていこうと思います。

 

 

『ミスター・ガラス』は、もちろん『アンブレイカブル』『スプリット』に続くシャマラン・トリロジーの完結編という位置づけの作品なのだけれど、同時に、これは意外と触れている人が少ないんだけど、レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)の改作と位置づけてもいい作品だと思う。そのくらい、この2作には共通点が多い。

 シャマラン作品ってのは、実はデビュー作から『ミスター・ガラス』に至るまで、テーマが完全に一貫しています。
これはRHYMESTER宇多丸さんがラジオの『アフター・アース』(2013)評の中でとても分かりやすく解説してくれているんだけど、要は「主人公が世界の本当の姿を知り、その中で自分が果たすべき役割を自覚する」というひとつのテーマが、どの作品の根底にもあるわけです。とりわけ『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、デビュー作『翼のない天使』から『シックス・センス』『アンブレイカブル』『サイン』『ヴィレッジ』と続いてきたシャマランワールドの、ひとつの総決算、集大成的ともいうべき重要な位置づけの作品なのです。

 


お話自体はかなりヘンテコで、多国籍の住人が集まるアパートのプールに妖精みたいな女の人が現れて、彼女を元の世界に戻すために管理人はじめアパートの住人たちが頑張るんだけど、どうやら彼女を送り返すためには「守護者(ガーディアン)」とか「治癒者(ヒーラー)」とか、いろんな役割を持った人物が必要で、ヒントを頼りにそいつらを見つけ出さなきゃならないという、まあ昔のティーンズノベルみたいな筋書きです。

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さて、この妙チクリンな舞台仕立て、どう考えても不自然。なんかメタファー臭い。
その予感は的中。妖精の名前が「ストーリー」(物語)って時点で、鋭い人は「あっ」て思うはず。要は、これって「物語を送り出す」話、つまり「映画を作る」ということそれ自体にたいするメタ視点を内包した作品なのですな。

 


シャマランってのはある意味狂った御方で、「物語を生み出すこと」、「その物語で世界を変えること」こそが自分の使命なのだと、ポーズじゃなくてマジで信じているフシがある。その証拠に、『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではシャマラン自身も役者として出演しているんだけど、彼は「紡ぎ出す言葉で世界を変える作家」の役なんですよ。うわぁ。お前どんだけナルシストやねん。辻仁成か。まぁ、こういうところが災いしたのか、本作は興行的には大失敗、ラジー賞も2部門で受賞してしまうという、散々な結果に終わったわけです。

 


でもこの映画、なんか不思議な魅力のある作品でもありまして。
阿部和重中原昌也が『シネマの記憶喪失』で激賞していたとおり、その世界に対する愚直なまでの信頼感といいますか、この監督は根本的なところでやっぱり人間という存在を信じてるんだなというか、ポンコツでダメダメなアパート(=世界の縮図)の住人たちが、宗教や国籍を超え、ストーリーを帰すという目的のために一致団結して協力する姿に、バカバカしいと笑いつつもちょっとグッときてしまったりするのですな。

シネマの記憶喪失

シネマの記憶喪失

 

 さて、『レディ・イン・ザ・ウォーター』で重要なのは、物語上で重要な役割を担うのが、必ずしも「能力を持った」者たちだけではないということ。
実は能力者を見つける過程で主人公たちは一度失敗してしまうのだけれど、結果的には「能力を持たない」普通の人たちの協力を得て正規ルートに戻る。つまり、彼らの助けがなければストーリーを無事に帰すことはできなかったという着地になっている。どんな人間にもそれぞれ役割があり、生まれてきた意味があるというシャマラン哲学の、まさしく体現といえる展開なわけです。

 


この前提を踏まえて、『ミスター・ガラス』を観てみましょう。
『ミスター・ガラス』は「選ばれた者」、すなわちスーパーヒーローであるデヴィッド・ダン、ヴィランであるイライジャとケヴィン、この3人を軸に進む物語です。それは確かなんだけど、実はこの3人には「力を持たない」普通の人間が、それぞれにとって大切な存在として、彼らに寄り添うように配置されている。ダンは息子、イライジャは母親、ケヴィンはケイシー。孤独で特異な存在である彼らを理解してくれる唯一無二の人びと。彼らは決して、単にヒーローとヴィランの対決を彩る背景としてではなく、物語上、非常に重要な役割を担う存在として描かれています。それは、映画のラストシーンが、この「持たざる者」3人の姿で締められることからも明らかです。

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つまり、本作も『レディ・イン・ザ・ウォーター』同様、「持つ者」たちと「持たない者」、それぞれの協力を描く物語である。選ばれた者たち、すなわち「主人公」たちの悲哀や孤独だけでなく、選ばれなかった者たち、言い換えれば「主人公になれなかった者」たちの弱さ、あるいは強さまでも描いている。
もっとも象徴的なのは、やはりケヴィンとケイシーの関係でしょう。前作『スプリット』のオープニングからは考えられないまでに発展した、お互いの痛みを分かち合うかのようなふたりの友情。最終的にケヴィンは死んでしまうのだけれど、ケイシーと抱擁し、ケヴィンが最後の最後に自分の存在意義を取り戻したあのシーンは、やはりこの物語のなかで最も美しく、そして感動的な瞬間でしょう。

 


ところで、本作では「オオサカタワー」という最終決戦にふさわしい場が示されながら、それはあくまでイライジャの(あるいはシャマランの)仕掛けたブラフであり、結局のところすべての戦いは精神病院の敷地内で完結します。これは、巷で言われているようにオオサカタワー(=人が多く集まり注目される場所)はマーベルをはじめとしたメジャーなヒーロー映画の領域であり、自分は別の道を選ぶんだというシャマランの宣言と捉えてもいいんだけど、しかしそれ以上に、今作がすべて精神病院の中で完結するというのは、作品の構造において大きな意味があると考えます。つまり、レディ・イン・ザ・ウォーター』のアパートが世界の縮図であったように、あの精神病院もまた「世界」であるということ。

 


レディ・イン・ザ・ウォーター』には、世界を壊す者(獣)、あるいは世界を偽りの解釈で満たし、誤った方向に導こうとする者(映画評論家)が出現します。この構図もまた、今作では完全に踏襲されています。「獣」は文字通りビースト(彼は当初イライジャに従うが、やがて反旗を翻してイライジャを「破壊」してしまう)、そして「世界を偽りの解釈で満たす者」は、サラ・ポールソン演じる精神科医を筆頭とした「三つ葉のクローバーの組織」の連中です。

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レディ・イン・ザ・ウォーター』では、映画評論家は獣に食われ、最終的に「能力者」や他の住人たちの奮闘の甲斐あって獣は逃亡し、「ストーリー」は元の世界に戻ります。一方、『ミスター・ガラス』では、獣(ビースト)は倒され、さらに「能力者」であるダンやイライジャも殺され、イライジャの持っていた「ストーリー」、つまり「スーパーヒーローは実在する」という「物語」は封じられてしまいます。かくして世界の偽りの均衡は保たれたかに見えたが……そこから始まる急展開。ここで、この物語の本当の構造が分かってきます。

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すなわち、すべては「イライジャ=ミスター・ガラス」の計画通りだったということ。組織の連中がダンとケヴィンを精神病院に連れてきた時点で、彼の目論見はほとんど達成されていた。今作における「ストーリー」=「スーパーヒーローの実在という物語」は、3人が集まった時点で、「解放」に向けて着々と動き出していたということが明らかになります。
レディ・イン・ザ・ウォーター』では、能力者を集めるまでに長い時間が割かれました。『ミスター・ガラス』においても、『アンブレイカブル』『スプリット』と実に20年をかけ、この作業をやってのけたわけです。あとは、能力者たちがそれぞれの役割を発揮して、「ストーリー」を世界に送り出すだけ。この映画は、開始からすでにクライマックスだったのです。

 


さらに言えば、あの精神病院に入院していたのは、実はシャマラン自身ではないか、とも思うのです。

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世間からは見放され、職員にはいじめられ、誰からも理解されない存在。それってすっかり「終わった人」扱いされて、ハリウッドで冷遇されてきたシャマラン自身のことじゃないのか。しかし彼は、その真っ白な独房のなかで、イライジャのように着々と「計画」を練り上げていた。
本作のタイトル、『ミスター・ガラス』。それはこの映画の「ストーリー」を練り上げ、最終的に解放させるに至った、全知全能の神のような男のあだ名。そしてその男がシャマランの分身であると仮定するのならば、この映画のタイトルは『シャマラン』…そう、僕にはこの映画が、タイトルからして「俺はシャマランだ!」と叫んでいるように見えます。

 


さて、そんなシャマランの「計画」は、どんな結果に終わったか。
本作は批評家連中にはそれなりに貶されつつも(つってもRottenの支持率が37%、平均点が10点満点で5点だからそこまでボロカスってわけじゃないけど)、観客には圧倒的に支持され、かつ全世界で大ヒットを記録。まさしく本作のラストシーンのように、世界中の「観客」たちが「スーパーヒーローの誕生」という「物語」を目撃することになった。そう、シャマランの20年越しの「計画」は、圧倒的なスケールで実現されてしまったのです。レディ・イン・ザ・ウォーター』において、あくまで作品内で描かれた「物語の解放」という奇跡を、彼は現実に起こしてしまったのです。

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さらに特筆すべきこととして、シャマランが凄まじいのは、こんな「神話」めいた物語を、きっちりとエンタテインメントとして、すさまじい完成度に仕上げてきたこと。
レディ・イン・ザ・ウォーター』はあくまで一人よがりなところもある寓話であり、観客にとってはいくぶん敷居が高く、飲み込みづらい物語でした。でも今回はかなりストレートな、正統派のエンタテインメント、つまり、ちゃんと「ヒーロー映画」をやっているわけです。普通に「映画としてメチャクチャ面白い」んです。それはまた、次世代のスピルバーグと持て囃され、さんざんナルシシズムに溺れたのち叩き落とされ、雇われ仕事から低予算映画までなんでもやりながら、コツコツとキャリアを築き直してきたシャマランの成長の結果といえるのかもしれません。

 


そしてまた、こんな「神話」を作り上げておきながら、シャマランは決して選民思想の持ち主ってわけではない。繰り返しになりますが、「持つ者」にも「持たざる者」にもそれぞれかけがえのない役割があり、双方が協力しなければ世界は変わらない、物語は生まれないというのがシャマランの思想だからです。

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だからこそ、「持つ者」たちがその役割を追えて物語からフェイドアウトしたのち、「持たざる者」たちが手を繋ぐ―世俗的な善悪を越え、「普通の人びと」たちが文字通り、手と手を取り合う―ラストが、もうめちゃくちゃにエモいわけです。なんかもう、すげえシビれるの。わけがわからないけど、なんだか無性に泣けてくる。それは「持たざる者」たるわれわれが、自らの生きる意味を見出した希望の涙なのかもしれない。あるいは、善悪を越えて人間は分かり会える、そうした普遍的な真理を見つけた喜びの涙かもしれない。はたまた、今まさに「物語」が生まれるその瞬間に立ち会った、畏敬の涙なのかもしれない。さまざまな感情が入り交じる涙が、僕の頬を伝いました。ええ、泣いたとも。泣きましたとも。泣くに決まってんだろこんなもん。

 

 


言いたいことはまだまだたくさんあるけど、このへんにしておく。
最後にひとこと。

 

あんたすげえよ。

んとにすげえよ、シャマラン。


ありがとう。



(2019.1.23鑑賞)