ノラブログ。               

 
 
 
 
 

【コス】北海道で雪ロケしてきたよ。

 

風邪引いたり頭痛になったり仕事が修羅ったりしてますが元気です。

ブログ全然更新してないや(´・ω・`)(映画は観てる)

 

それはそうと北海道で雪ロケしてきたので写真と動画貼っつけときますね。

 

 

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【新作映画レビュー】海!広い!敵!悪い!倒す!以上!お疲れ様でした!『アクアマン』感想

 

【2019年:11本目】

 

アクアマン

 

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84点

 

 

 

 


ひとこと:
キャッキャウフフ(´∀`*)

 

 

 


ハリウッドにおいて、海ものはコケるというジンクスがあるそうな。
『ウォーターワールド』しかり、『アイランド』しかり、『スピード2』『ポセイドン』しかり。
そんな中、本作『アクアマン』は興行的に大ヒットを記録、批評的にも高評価と、神話を覆す快進撃を続けております。

 

 

でさあ、巷の評判では、海版バーフバリだとか海版ワイスピだとかバカのシェイプ・オブ・ウォーターだとか言われているわけですよ。そんなもん期待するに決まってんじゃないすか。で、結果としてその期待は裏切られなかったのでした。面白かった。ちなみに俺はハリウッド版さかなクンだと思いました。

 

 

まー何がGOODかって、明るいっすね!

明るいのが良いっすね!とにかく明るいアクアマン!


だってほら、『ダークナイト』以降、ここ10年くらいのヒーロー映画ってなんかノーラン路線というか、暗いのばっかりだったじゃないすか(アントマンとかもあるけど)。古き良きアメリカ産のおバカなエンタメが世を席巻していた時代、ウィル・スミスが宇宙人を殴ったりブルース・ウィリス小惑星に送り込んだりして観客がゲラゲラ笑いつつも燃えて(萌えて)いたあの素晴らしき時代はどこへ行ってしまったのか。

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そこへいくと本作、たいへんバカである。そしてたいへん明るい。thereforeたいへん楽しい。何よりヒーローがウジウジ悩まないのがいいですね。善とは?悪とは?俺の存在意義とは?そんなことを考え始めてダウナーになる時間がほぼゼロ。「何のために戦うのか」とかグチグチやらないのがいい。うるせえ!こまけえことはいいんだよ!海!広い!敵!悪い!倒す!以上!お疲れ様でした!これでいいわけですよ。

 

そういう大味バカな作風が功を奏したのか、本作、全体的になんかほのぼのしてますね。
敵さん、オーム王ですか、彼あんまり悪い奴じゃないよね。なんか無関係の魚人いきなり殺してたのは見て見ぬ振りをするとして(おい)、「監禁」の方法もやたら紳士的だし、これからバトルってときに「できれば殺したくないから帰って(´・ω・`)」とか言い出すし。なんだよーもーお前も結局お兄ちゃんのこと大好きなんじゃん(´∀`*)ウフフ

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なんというんですかね、結局敵も含めてみんな主人公に注目しまくりだし主人公のこと大好きだから、バトルしててもルパンV.S.とっつあんみたいなキャッキャ感があるのよね。この不思議な安心感、予定調和感は『ミッション・インポッシブル』シリーズに近い。敵も味方もトム・クルーズが大好き。ていうかトム・クルーズをめぐる争奪戦。本作もアクアマンをめぐる三角関係。誰が彼を振り向かせるのか。アクアマンは私のものよ!いや私のものよ!的なノリ。メラちゃんもオーム王ちゃんもツンデレなのでなんだか困り顔のアクアマン。かわいい。

 

 

あと、本作の特徴として、主要キャラがほぼ死なないんですよね。だからこれでもかってほどのハッピーエンド。後味ヨシ。

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あ、でもあいつ死んでたか。ブラックマンタの親父。あれは…別にいいや(・ω・)しかし、あそこで助けてくれなかったからって逆恨みするブラックマンタの動機も謎。なぜさっきまで殺し合ってた相手に助けて貰えると思ったし。あれか、ヒーロー映画を観すぎたのか。そのあとオーム王にもらった武器のデザインが気に食わないからってすげえ楽しそうにDIY始めるあたりも微笑ましいですね。基本、努力家で向上心溢れる父親想いのナイスガイなんだと思う、彼。ちょっと無関係の人を殺しまくる癖があるのと被害者意識が強いだけで。でもデザインセンスに関しては疑問だねえ。あんな劇場版ドラえもんに敵の参謀役として登場しそうなデザインにせんでも。あとセンスが悪いといえばオーム王。オーシャンマスターだっけ。そんな、ユーキャンで3ヶ月講座を取れば取得できる資格みたいな名前にしなくても。

 

 

あと褒めポイントとしては、140分という長さを感じさせない脚本ですねえ。そう、実はけっこう長いんだよこの映画。でも退屈するシーンはほぼ無かった気がする。アトラクションに次ぐアトラクション。そして最後は王を讃えよ!アイ・アム・アクアマン!でフィニッシュ。うん、満足満足。

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強いて言えば、お魚ちゃんたちをもうちょっと活躍させてあげて欲しかったかな。意外とクラゲの出番が多んだよね(モニュメントになってるのとかも含めて)。俺あいつら嫌い。刺してくるから。次回作ではぜひそのへんお願いしたい。マンボウとかハリセンボンとか活躍させて。かわいいから。

 

 

ちなみに、アクアマンの親父を演じたテムエラ・モリソンと、バルコ役のウィレム・デフォーは、同じく海を舞台にした映画『スピード2』(1996)で共演しております。

スピード2 (字幕版)

スピード2 (字幕版)

 

 親父、こっちでは悪い人だったデフォー様に腕を折られたり海に突き落とされたり散々な目に遭わされております。今作でも若干死にかけてたしなあ。こちらは次作がちょっと心配。お大事に。

 

 

(2019.2.23鑑賞)

【新作映画レビュー】密室サスペンスの皮をかぶった青春映画『十二人の死にたい子どもたち』感想(ネタバレなし)

 

【2019年:10本目】

 

十二人の死にたい子どもたち

 

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76点

 

 


ひとこと:
原作よりオススメ。

 

 

 


これねー、宣伝が悪いんよな。
いかにも『SAW』とか『CUBE』みたいな、脱出ゲーム型サスペンスって体(てい)じゃないすか。実際は全然違う。脱出不能じゃないし。普通に出入りしてるし。リアルタイムじゃないし。なんならサスペンスでもないし。推理要素あんまないし。言っときますけど、予告の最後で叫んでる「死にたいから殺さないで!」とか、そんな台詞、本編には一切出てこないからね。

 

 

じゃあなんなのかっつーと、これジャンルとしては明確に青春映画なんですよ。
同じ堤幸彦でも『ケイゾク』や『SPEC』じゃなくて包帯クラブ(2007)に近い。要は重い題材、あるいは飲み込みづらいフィクショナルな設定をコミカルかつテンポよく料理することによって、エンタメとしてギリ成立させるタイプの映画ってこと。

包帯クラブ [DVD]

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 『包帯クラブ』ってのは当時まだハタチ前後の柳楽優弥石原さとみ田中圭貫地谷しほりが共演しているという今見るとけっこう凄い映画なんですが、「心の傷」を塞ぐという名目で街のありとあらゆるところに包帯を巻いてまわるという大変迷惑なお話でして、まあ完全に狂ってる作品といえます(これは堤幸彦というよりは原作の天童荒太のせい)。
ただフォローしておくと、個人的にはなんとなく嫌いになれない、可愛げのある映画でもありまして。なんていうのかな、そういう狂った設定、狂った行動をするキャラクターの奥底にあるピュアな激情、大人になりきれないがゆえの痛々しさ、不器用さみたいなものを、若手キャストたちがきちんと体現していること、さらにシリアスになりすぎず、適度にギャグを挟んでくるコミカルな堤幸彦演出も相まって、なかなか爽やかな青春映画に仕上がっているんですな。狂ってるけど。

 

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というわけで、今作『十二人の死にたい子どもたち』も、どう考えてもリアリティに欠ける、思いっきり人工的なシチュエーション及びルールがあらかじめ設定されており、その制約のなかで「若さ」を描こうとする物語です。断じてミステリではないし、サスペンスでもない。ゆえに、そこを期待して観に行った観客は肩透かしを食らうと思う。このへん、評価が真っ二つに分かれてる所以かもしれません。

 

 

で、はじめに結論から言うと、この映画、そんなに悪くないです。
少なくとも原作よりは面白い。

 

 

原作小説、今回映画を観るにあたって一応読んだんですが、これがまあ、冲方先生どうしちゃったの?って言いたくなるくらい出来が悪いシロモノでして。

十二人の死にたい子どもたち (文春文庫)

十二人の死にたい子どもたち (文春文庫)

 

 さっきから繰り返しているとおり、本作は「ミステリ」ではない。一応ミステリ的な謎掛けはあるものの、それはあくまでお話の推進力としての機能しかなく、テーマとは何ら関係ない。でもこの原作は、その謎解き部分にやたらめったら分量を割くわけ。そんなわけで全体的に冗長。特に話が始まるまでがとにかく長い。あげく、種明かし自体は(原作も映画も)しょーもないの。だからガクッときちゃう。
では肝心のテーマ、つまり青春小説としての部分はどうかというと、これはおそらくタイトルとシチュエーションを最初に思いついてしまったがゆえの弊害なんだろうけど、12人のキャラクターの描き分けが全然できてない。まずそもそも12人である必然性が(有名映画のオマージュという意味以上のものが)無いし、そのくせ12人もいるもんだから会話が不必要に長くて、ああでもないこうでもないとくっちゃべってるだけで、事態が先に進まない。おまけにどいつもこいつもいかにも人工的に「作られた」ガキどもでしかなく(会話がとにかく不自然すぎる)、まったく感情移入できない。要するに、人間ドラマ、青春小説としても凡庸、かつ退屈。悪い意味でラノベ的つーか、紋切り型とステレオタイプに彩られた、こう言ってしまってはなんですが、しょうもない作品だったわけです。

 


で、この映画版ですが、原作と比較すると明らかに「お、いいな」って思える部分がけっこう散見されるんですな。

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たとえば、原作からの刈り込みの上手さ。原作小説は本題に入るまでが長いって言いましたけど、この映画版は序盤からさくさくキャラ紹介して、スピーディーに全員が集合して本題に入ってくれるんですよ。あと、各キャラクターが部屋に集まるまでの過程で、それぞれの特徴を台詞ではなく表情や態度で視覚的に描き分けていて、このあたり「なかなかやるじゃん」って思うの。観客が観たいと思ってるもの、つまりあの暗い部屋に12人が集まった光景、それをすぐに観せてくれる。OMOTENASHIとしては合格点。
はやぶさ/HAYABUSA』とか『天空の蜂』もそうだけど、堤幸彦って意外と情報の整理に関しては上手い人だと思うんですよ(『20世紀少年』ですら原作よりは分かりやすくなってたし)。まあ、分かりやすいがゆえに映画とは相性が悪くて、やっぱりテレビ的ってことで敬遠されちゃうという弊害はあるにせよ。

はやぶさ/HAYABUSA

はやぶさ/HAYABUSA

 
天空の蜂

天空の蜂

 

 

 

あと、これは『包帯クラブ』とも通じる点ですが、本作の成功の最大の要因は、比較的コミカルな作風にすることで、原作のもつ不自然さ、作り物臭さをカバーしていることだと思います。

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考えてもみてくださいよ。集団自殺するために廃病院にガキどもが12人も集まる、しかもベッドやら割り振られたナンバープレートやら舞台装置がやたらお膳立てされている」っていうリアリティ0のシチュエーションですよ。脱出サスペンスならともかく、何度も言うように本作は青春映画なんですよ。うら若き少年少女が雁首揃えて「俺たちの生きる意味とは」みたいな青臭い議論するわけですよ。こんなもん真面目くさって変にリアル寄りに撮ったら、それこそ目も当てられないザ・邦画になっちゃうじゃないですか。
そこへいくと、本作の「作り物ですよ~」ってバランスは悪くない。タイトルから「死にたい」とか言わせてるわりに、そんなに暗いムードじゃない。ギャグとか会話の妙でクスッとさせるような場面も多いし、2時間以内に収まる程度にはテンポも良い。まぁ意地悪く言えば、死をリアルなものとして描くことから逃げてると言えなくもないけど、少なくともウェットな愁嘆場なんぞを描かれるよりは遥かにマシである。

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なんとなく「死」は求めてみたけれど、「死」そのものにリアリティを感じることができない「子どもたち」の、当事者でありつつも一歩引いた視点が終始保たれていて、観客も現実に起きている出来事というよりは、「そういう世界の出来事」として寓話的に、「作り物」としてすんなり受け取ることができる。要は、変にシリアスに描かなかったことにより、ギリギリのラインで作品内における「リアル」を保つことに成功しているのです。

 

 

あと、若手役者陣の演技に助けられた部分は相当大きいと思います。彼ら彼女らのフレッシュな演技が観られるだけでも、本作は相応の価値がある。

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12人の子どもたち、半分くらいはほとんど新人みたいなキャスティングらしいですが、キャリアの差を感じさせないくらいに上手かったですねえ。高杉真宙と橋本環奈は最早さすがの貫禄。あと、あのゴスロリの娘。古川琴音ちゃんですか。いいですねえ。あのいっぱいいっぱいな感じ。かわいい。実は『チワワちゃん』にも出てたのね。いやー今後伸びるんじゃないすかこの娘は。わっはっはっは。

 

 

ちなみに、これは一応指摘しておきますが、原作からの改変ポイントで一番ダメだったのは、「投票」するシチュエーションがほぼ失われたことですね。
最初と最後くらいしかやってないし。本家の『12人の怒れる男』あるいは『12人の優しい日本人』は、当初全会一致で決まっていた結論がふとした弾みで意外な方向に転がり始め、賛成や反対が入り乱れていくさまが楽しい映画であって、原作もそこを狙った部分は大きいはずなので、「12人」要素はちゃんと入れて欲しかったなーというのはありますな。

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あ、あとエンドロールのアレはいらねえ。何度も言うけどこれミステリ部分は重要じゃないから。そこ丁寧に説明されても「……はぁ」って感じだし。だったらNG集かメイキングでも入れといたほうが良かったんじゃないかなーって(『イニシエーション・ラブ』の最後は笑ったんだけどな)

 

 

 

そんなわけで、期待するものを間違えなければ、それなりに楽しめる映画だと思います。


手が込んだサスペンスだとか、死について考えさせられるとか、そんなものは望まず、あくまで「作り物」として軽いノリで観にいけばいいんじゃないですかね。

 

 

(2019.2.6鑑賞)

【新作映画レビュー】『ミスター・ガラス』は『レディ・イン・ザ・ウォーター』の素晴らしき改作であり快作である!



【2019年:9本目】

ミスター・ガラス

 

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100点

 

 




ひとこと:
ありがとうシャマラン

 

 

 

 


【ネタバレ注意】
以下の文章は『ミスター・ガラス』ならびに『アンブレイカブル』『スプリット』『レディ・イン・ザ・ウォーター』の結末に触れています。『アンブレイカブル』3部作は必ず、『レディ・イン・ザ・ウォーター』もなるべくご覧になったうえでお読みください。

 



この映画についてはさぁ、いろんな人、それこそ世界中のシャマラニストたちがすでに各々興味深い考察を書いてくれているわけで、もうそれ読んでくださいってことでいいんじゃねえかなと思うんだけど、まあ書くわな。書かずにいられないわな。
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最初の注意書きをくぐり抜けてここを読んでいる人は当然ストーリー紹介なんか不要なはずだし、ヒーロー論、ヴィラン論についても、俺なんかよりはるかに詳しい人が良い文章を書いてくれているのでそっちに譲る。今回はあくまで、この『ミスター・ガラス』という世界の“創造者”、すなわち監督M・ナイト・シャマランにとってこの映画はなんなのか、具体的に言えば、なぜシャマランは偉大なのかという一点に絞って書いていこうと思います。

 

 

『ミスター・ガラス』は、もちろん『アンブレイカブル』『スプリット』に続くシャマラン・トリロジーの完結編という位置づけの作品なのだけれど、同時に、これは意外と触れている人が少ないんだけど、レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)の改作と位置づけてもいい作品だと思う。そのくらい、この2作には共通点が多い。

 シャマラン作品ってのは、実はデビュー作から『ミスター・ガラス』に至るまで、テーマが完全に一貫しています。
これはRHYMESTER宇多丸さんがラジオの『アフター・アース』(2013)評の中でとても分かりやすく解説してくれているんだけど、要は「主人公が世界の本当の姿を知り、その中で自分が果たすべき役割を自覚する」というひとつのテーマが、どの作品の根底にもあるわけです。とりわけ『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、デビュー作『翼のない天使』から『シックス・センス』『アンブレイカブル』『サイン』『ヴィレッジ』と続いてきたシャマランワールドの、ひとつの総決算、集大成的ともいうべき重要な位置づけの作品なのです。

 


お話自体はかなりヘンテコで、多国籍の住人が集まるアパートのプールに妖精みたいな女の人が現れて、彼女を元の世界に戻すために管理人はじめアパートの住人たちが頑張るんだけど、どうやら彼女を送り返すためには「守護者(ガーディアン)」とか「治癒者(ヒーラー)」とか、いろんな役割を持った人物が必要で、ヒントを頼りにそいつらを見つけ出さなきゃならないという、まあ昔のティーンズノベルみたいな筋書きです。

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さて、この妙チクリンな舞台仕立て、どう考えても不自然。なんかメタファー臭い。
その予感は的中。妖精の名前が「ストーリー」(物語)って時点で、鋭い人は「あっ」て思うはず。要は、これって「物語を送り出す」話、つまり「映画を作る」ということそれ自体にたいするメタ視点を内包した作品なのですな。

 


シャマランってのはある意味狂った御方で、「物語を生み出すこと」、「その物語で世界を変えること」こそが自分の使命なのだと、ポーズじゃなくてマジで信じているフシがある。その証拠に、『レディ・イン・ザ・ウォーター』ではシャマラン自身も役者として出演しているんだけど、彼は「紡ぎ出す言葉で世界を変える作家」の役なんですよ。うわぁ。お前どんだけナルシストやねん。辻仁成か。まぁ、こういうところが災いしたのか、本作は興行的には大失敗、ラジー賞も2部門で受賞してしまうという、散々な結果に終わったわけです。

 


でもこの映画、なんか不思議な魅力のある作品でもありまして。
阿部和重中原昌也が『シネマの記憶喪失』で激賞していたとおり、その世界に対する愚直なまでの信頼感といいますか、この監督は根本的なところでやっぱり人間という存在を信じてるんだなというか、ポンコツでダメダメなアパート(=世界の縮図)の住人たちが、宗教や国籍を超え、ストーリーを帰すという目的のために一致団結して協力する姿に、バカバカしいと笑いつつもちょっとグッときてしまったりするのですな。

シネマの記憶喪失

シネマの記憶喪失

 

 さて、『レディ・イン・ザ・ウォーター』で重要なのは、物語上で重要な役割を担うのが、必ずしも「能力を持った」者たちだけではないということ。
実は能力者を見つける過程で主人公たちは一度失敗してしまうのだけれど、結果的には「能力を持たない」普通の人たちの協力を得て正規ルートに戻る。つまり、彼らの助けがなければストーリーを無事に帰すことはできなかったという着地になっている。どんな人間にもそれぞれ役割があり、生まれてきた意味があるというシャマラン哲学の、まさしく体現といえる展開なわけです。

 


この前提を踏まえて、『ミスター・ガラス』を観てみましょう。
『ミスター・ガラス』は「選ばれた者」、すなわちスーパーヒーローであるデヴィッド・ダン、ヴィランであるイライジャとケヴィン、この3人を軸に進む物語です。それは確かなんだけど、実はこの3人には「力を持たない」普通の人間が、それぞれにとって大切な存在として、彼らに寄り添うように配置されている。ダンは息子、イライジャは母親、ケヴィンはケイシー。孤独で特異な存在である彼らを理解してくれる唯一無二の人びと。彼らは決して、単にヒーローとヴィランの対決を彩る背景としてではなく、物語上、非常に重要な役割を担う存在として描かれています。それは、映画のラストシーンが、この「持たざる者」3人の姿で締められることからも明らかです。

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つまり、本作も『レディ・イン・ザ・ウォーター』同様、「持つ者」たちと「持たない者」、それぞれの協力を描く物語である。選ばれた者たち、すなわち「主人公」たちの悲哀や孤独だけでなく、選ばれなかった者たち、言い換えれば「主人公になれなかった者」たちの弱さ、あるいは強さまでも描いている。
もっとも象徴的なのは、やはりケヴィンとケイシーの関係でしょう。前作『スプリット』のオープニングからは考えられないまでに発展した、お互いの痛みを分かち合うかのようなふたりの友情。最終的にケヴィンは死んでしまうのだけれど、ケイシーと抱擁し、ケヴィンが最後の最後に自分の存在意義を取り戻したあのシーンは、やはりこの物語のなかで最も美しく、そして感動的な瞬間でしょう。

 


ところで、本作では「オオサカタワー」という最終決戦にふさわしい場が示されながら、それはあくまでイライジャの(あるいはシャマランの)仕掛けたブラフであり、結局のところすべての戦いは精神病院の敷地内で完結します。これは、巷で言われているようにオオサカタワー(=人が多く集まり注目される場所)はマーベルをはじめとしたメジャーなヒーロー映画の領域であり、自分は別の道を選ぶんだというシャマランの宣言と捉えてもいいんだけど、しかしそれ以上に、今作がすべて精神病院の中で完結するというのは、作品の構造において大きな意味があると考えます。つまり、レディ・イン・ザ・ウォーター』のアパートが世界の縮図であったように、あの精神病院もまた「世界」であるということ。

 


レディ・イン・ザ・ウォーター』には、世界を壊す者(獣)、あるいは世界を偽りの解釈で満たし、誤った方向に導こうとする者(映画評論家)が出現します。この構図もまた、今作では完全に踏襲されています。「獣」は文字通りビースト(彼は当初イライジャに従うが、やがて反旗を翻してイライジャを「破壊」してしまう)、そして「世界を偽りの解釈で満たす者」は、サラ・ポールソン演じる精神科医を筆頭とした「三つ葉のクローバーの組織」の連中です。

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レディ・イン・ザ・ウォーター』では、映画評論家は獣に食われ、最終的に「能力者」や他の住人たちの奮闘の甲斐あって獣は逃亡し、「ストーリー」は元の世界に戻ります。一方、『ミスター・ガラス』では、獣(ビースト)は倒され、さらに「能力者」であるダンやイライジャも殺され、イライジャの持っていた「ストーリー」、つまり「スーパーヒーローは実在する」という「物語」は封じられてしまいます。かくして世界の偽りの均衡は保たれたかに見えたが……そこから始まる急展開。ここで、この物語の本当の構造が分かってきます。

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すなわち、すべては「イライジャ=ミスター・ガラス」の計画通りだったということ。組織の連中がダンとケヴィンを精神病院に連れてきた時点で、彼の目論見はほとんど達成されていた。今作における「ストーリー」=「スーパーヒーローの実在という物語」は、3人が集まった時点で、「解放」に向けて着々と動き出していたということが明らかになります。
レディ・イン・ザ・ウォーター』では、能力者を集めるまでに長い時間が割かれました。『ミスター・ガラス』においても、『アンブレイカブル』『スプリット』と実に20年をかけ、この作業をやってのけたわけです。あとは、能力者たちがそれぞれの役割を発揮して、「ストーリー」を世界に送り出すだけ。この映画は、開始からすでにクライマックスだったのです。

 


さらに言えば、あの精神病院に入院していたのは、実はシャマラン自身ではないか、とも思うのです。

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世間からは見放され、職員にはいじめられ、誰からも理解されない存在。それってすっかり「終わった人」扱いされて、ハリウッドで冷遇されてきたシャマラン自身のことじゃないのか。しかし彼は、その真っ白な独房のなかで、イライジャのように着々と「計画」を練り上げていた。
本作のタイトル、『ミスター・ガラス』。それはこの映画の「ストーリー」を練り上げ、最終的に解放させるに至った、全知全能の神のような男のあだ名。そしてその男がシャマランの分身であると仮定するのならば、この映画のタイトルは『シャマラン』…そう、僕にはこの映画が、タイトルからして「俺はシャマランだ!」と叫んでいるように見えます。

 


さて、そんなシャマランの「計画」は、どんな結果に終わったか。
本作は批評家連中にはそれなりに貶されつつも(つってもRottenの支持率が37%、平均点が10点満点で5点だからそこまでボロカスってわけじゃないけど)、観客には圧倒的に支持され、かつ全世界で大ヒットを記録。まさしく本作のラストシーンのように、世界中の「観客」たちが「スーパーヒーローの誕生」という「物語」を目撃することになった。そう、シャマランの20年越しの「計画」は、圧倒的なスケールで実現されてしまったのです。レディ・イン・ザ・ウォーター』において、あくまで作品内で描かれた「物語の解放」という奇跡を、彼は現実に起こしてしまったのです。

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さらに特筆すべきこととして、シャマランが凄まじいのは、こんな「神話」めいた物語を、きっちりとエンタテインメントとして、すさまじい完成度に仕上げてきたこと。
レディ・イン・ザ・ウォーター』はあくまで一人よがりなところもある寓話であり、観客にとってはいくぶん敷居が高く、飲み込みづらい物語でした。でも今回はかなりストレートな、正統派のエンタテインメント、つまり、ちゃんと「ヒーロー映画」をやっているわけです。普通に「映画としてメチャクチャ面白い」んです。それはまた、次世代のスピルバーグと持て囃され、さんざんナルシシズムに溺れたのち叩き落とされ、雇われ仕事から低予算映画までなんでもやりながら、コツコツとキャリアを築き直してきたシャマランの成長の結果といえるのかもしれません。

 


そしてまた、こんな「神話」を作り上げておきながら、シャマランは決して選民思想の持ち主ってわけではない。繰り返しになりますが、「持つ者」にも「持たざる者」にもそれぞれかけがえのない役割があり、双方が協力しなければ世界は変わらない、物語は生まれないというのがシャマランの思想だからです。

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だからこそ、「持つ者」たちがその役割を追えて物語からフェイドアウトしたのち、「持たざる者」たちが手を繋ぐ―世俗的な善悪を越え、「普通の人びと」たちが文字通り、手と手を取り合う―ラストが、もうめちゃくちゃにエモいわけです。なんかもう、すげえシビれるの。わけがわからないけど、なんだか無性に泣けてくる。それは「持たざる者」たるわれわれが、自らの生きる意味を見出した希望の涙なのかもしれない。あるいは、善悪を越えて人間は分かり会える、そうした普遍的な真理を見つけた喜びの涙かもしれない。はたまた、今まさに「物語」が生まれるその瞬間に立ち会った、畏敬の涙なのかもしれない。さまざまな感情が入り交じる涙が、僕の頬を伝いました。ええ、泣いたとも。泣きましたとも。泣くに決まってんだろこんなもん。

 

 


言いたいことはまだまだたくさんあるけど、このへんにしておく。
最後にひとこと。

 

あんたすげえよ。

んとにすげえよ、シャマラン。


ありがとう。



(2019.1.23鑑賞)

【告知】2/24 HARU COMIC CITY24 豪快SWINGにて本出します。

2/24春コミ豪快SWING

東2ホール ニ09a「猫たちの迷宮」にて、こんな本出します。

 

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そうです。バトミスです。
ちなみに本編は全部ギャグです。B5/20p/300円予定っす。

ブースでコスもせずにぼーっとしてますんでお暇な方はお越しくださいませ。