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ノラブログ。               

 
 
 
 
 

【書評】佐村河内氏の自伝を読んでみた。

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佐村河内氏、著書の音楽修業「すべてうそ」講談社が謝罪 - 芸能 - ZAKZAK

 

 昼間の会見を受けてタイムラインは小保方女史の話題で持ちきりである。

 それはそうと、STAP細胞騒動と時を同じくして今やすっかりお茶の間のエンタメ芸人と化してしまった佐村河内守氏。その自伝が絶版・回収されるというので、これは是非読まねば、ということで先日Amazonのユーズドで購入、読破したのであった。

 

交響曲第一番

交響曲第一番

 

  

 一読しての感想。面白かった。

 

 本人は否定しているらしいが、この手の本の通例としてゴーストライター、もしくはそれに近いレベルでの大幅な校正・編集の手が入っているのは確かだろう(出版業界ではよくあることなので、それをもって佐村河内氏を批判するのは野暮である)が、そうした点を鑑みても、自伝本としてかなり良い出来だというのが率直な感想だ。ゴーストライター、もしくは編集者が有能だったのだろうと唸らされる。

 

 具体的にどこがどう面白いのか言っていくね。

 読み始めてまず感心させられるのが、挿入されるエピソードのディテールの細かさ、巧みさである。例えばこの本のプロローグは「音を喪くした日」というサブタイトルで、聴覚を完全に失った(とされる)日の出来事から始まる。朝起きて、耳に異常があることを察知した佐村河内氏の動揺が描かれるのだが、これが冒頭から一気に読者の心を掴むのである。

 以下引用。

 

 激しい焦燥感に襲われつつ、真実を確かめるため、私は廊下で何度となく横転しながら自分の<音楽室>へと向かいました。そしてシンセサイザーの前に立ち、ゆっくりと呼吸を整えてから思いきり鍵盤をたたいたのです。

 

 

 何も聞こえない――。

 

 全身から血が引いていくのがわかりました。

 ふと、シンセサイザーの電源が入っていないことに気づき、私は神に感謝しながら、スイッチをオンに切り替えました。ランプの点灯を確かめ、再度呼吸を整え、鍵盤が壊れかねない勢いで両手をたたきつけたのです。

 でも、結果は同じでした。

 

 ポイントは、シンセサイザーの電源を入れるというステップを踏んでいる点である。単に鍵盤を叩いたが聞こえないというだけで終わらせるのは素人の所業。一抹の希望的な要素を合間に挿入することによって主人公(=佐村河内守の焦りや動揺がより生々しく伝わるし、主人公の設定(=全聾)にリアリティと説得力を持たせている。何よりこの衝撃的な出だしが、これから始まる「佐村河内守物語」の凄絶さを予感させてくれる。

 

 読み進めていくと、ピアノを教える母親の「手作りムチ」のエピソード(ムチの先端の布を二重巻きからこっそり三重巻きに変えて痛みを軽減しようとしたところ、母親にそれを見抜かれて一重巻きにされる)、本屋のエピソード(書店で高価な音楽の本を見つけて買うか悩み、他の誰かに買われないよう平積みの本の下に隠して立ち去る)、「センザイ」(宣材)の意味が分からず音楽プロデューサーにバカにされる場面、地の文に広島弁が挿入される幼少時の回想など、魅力的なお話が次々と出てきて読者を飽きさせない。

 

 佐村河内氏の難聴自体は事実であるようだし、一時期ロックミュージシャンをやっていた過去から、音楽にある程度触れた経験はあるようなので、シンセサイザーの件をはじめとしたこれらエピソードの多くは実体験を加工したものではないかと思われる。 もちろん自伝を書くにあたってある程度の脚色は必要なのだが、この本の凄いところはそうした個々の「事実」を上手く「虚構」と組み合わせることによって、佐村河内守」という架空の魅力的なキャラクターを見事に創り出してしまったことだ。

 

 もっともその一方で、虚構と事実を織り交ぜたために、明らかに「佐村河内守」というキャラクターとは不釣合いな部分も散見される。例えば中学時代の悪童ぶり(校門で他校生に待ち伏せされるなど)は、たとえ事実であったにせよ、ひたすら音楽求道に明け暮れていた天才少年という「佐村河内守物語」からは大きく逸脱するし、ロック歌手としてデビュー(繰り返すが、これは事実)する部分も、これまたそれまでの音楽修業の話(これはおそらくウソ)との整合性が薄く、唐突に思える(そのためか、あまり文量は割かれていない)。

 思いきりウソ臭く見える部分もある。道路清掃のアルバイト仲間に数年後に会いに行くくだり(バイトのメンバー変わってないの?)は読んでいて違和感があったし、重要な場面で出てくるシックス・センス的スピリチュアルエピソード(夢に出てきた少女、弟の霊?)はいくらなんでもやりすぎである。大川隆法先生じゃないんだから。

 

 と、いろいろ詰めの甘いところはあれど、小さな伏線の積み重ねがラストで見事に大団円を迎える構成はきわめて巧みといえる。被爆二世という過去、弟の死、仏教に傾倒した叔父の教え、盲目の少女「しお」の存在など、魅惑的な登場人物やエピソードが結末で一気に乱舞し、「死んだ作曲家」であった「私」が、数々の苦難を乗り越えて最後に「生」を見出すクライマックスは(それが事実なら)たいへん感動的である。  

 ちなみに本書を読んでいる間、ぼくは常に嫌な感じの半笑いを抑えるのに苦心していたことを付言しておく。

 

 作中で佐村河内氏はたいへん良いことを言っている。

 今となっては完全なブーメランであるが、引用しておく。 

 

 しかし、これまで聴覚障害を隠し通してきたのには、理由がありました。

 一つは、耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです。自分の作品はいっさいの同情なしに正しく評価されねばならない、たとえそれが「クソだ」という評価であっても、です。もう一つは、「聴覚障害を売り物にした」という誤解も避けられないだろう、ということです。

 この二つの理由が、この先間違いなく、自らをひどくみじめな思いに陥らせるであろうことはわかっていました。 

(中略)

 しかし、仮に、お涙頂戴的な「聴覚障害を売り物に……」という誤解に対して無理やり目をつむったとしても、同情票を得ながらのうのうとメディアの中で作曲家として進んでいけるほどの図太い神経は、持ち合わせてはいませんでした。

 

 ちなみに僕は、「聴覚障害を売り物にした」ことそれ自体が悪いとは思わない。与えられたカードをフル活用して悪いことなどない。

 売ったものがすべてインチキだったから悪いのである。