わたくしNORAは温厚でも、寛容でもありません。
同い年でありながら、その頭脳の明晰さに敬意を抱いているかねどー氏のツイートより。(注:コス等とはまったく関係のない方です)
フォロワーが増えると、フォロワーがクラスタA/B/Cみたいな構成になって、A向けに面白いことを言ったつもりが意識してなかったBの神経を逆なでするみたいな現象が見られがちになる。それで黙ったり気を遣うのもだるいから、まぁ結局嫌ならリムってという話になるが
最近、ウェブで発言するということについて考えを巡らすことが多い。
ウェブという半パブリックな場で発言するということはつまり、その言葉を誰かに聞かれることを前提としている。
独り事や愚痴なら日記に書きつければいいし、若い頃の犯罪自慢は仲間内の酒の席だけにしておくのが無難だ。
同意や賛意であれ、批判や中傷であれ、ともかく誰かしら何かしらの反応を期待しながら、人はオープンな場に文字を書きつける。
当然ながら万人にとって心地良い言葉は存在しないし、万人にとって不快な言葉も存在しない。
「世界人類が平和でありますように」というお題目にイラッと来る者はいるし、元少年Aの手記『絶歌』を読んで感銘を受ける読者もいることだろう。
かねどー氏が指摘するように、Aにとって面白い言葉がBにとって不快な可能性はあるし、その逆もある。すべての人に「配慮」することなど不可能だし、だいいち面倒臭い。
その一方、すべてではないにしろ大多数の人に「まぁそうだよね」と受け入れられやすい言葉というのも一応あって、そういうのは「正論」とか「名言」、「道徳」なんて称される。
「話し合いが大切」
「人が嫌がることはするな」
「バランスが大事」
「どんなことがあっても人を殺してはいけない」
「地球環境を守ろう」
とかね。
実際は毒にも薬にもならないことしか言ってないので内容スッカスカなんだけど、そのぶん反論もしにくい(ように見える)ので一般にこの手の言葉は重宝される。
ただねぇ、これだけ価値観や感覚が多様化している社会の中に生きていて、こんな最大公約数的なお題目をありがたいとは思わないよね、さすがに。
「人を殺すのは悪いことです。なぜならそれによって悲しむ人がいるからです」なんて書き出しで始まる文章、読む気するかね。
さて、ここからは俺の話である。
俺は基本的に、俺と、俺と仲の良い人たち、俺に好意(変な意味じゃなく)を持ってくれる人たちが面白おかしくなるような発言や行動をしていきたい。
無粋な言い方をすれば、俺(と俺の周りの人たち)が楽しければそれでいい。
その埒外にいる人たちの心情は基本的に考慮しません。
もっと具体的に言えば、俺の喋りや行動をウゼーって思う人がいても、その人らに気を使って自粛するようなことはしません。嫌なら見ないで、というスタンス。
かといって、過激派路線を歩もうとか毒舌キャラで売ろうとか、そういうわけじゃない。
たとえば疾患や障害を抱えてる人とか、特定の民族・職業の人たちをひとくくりにして侮辱するような言葉は基本的に使わないよう心掛けてはいる。一般的なルールやマナーだってだいたいは守る。人並み程度の尊法意識はある。ひょっとすると、外面では温厚だったり寛容な態度に見えているかもしれない。
でもそれは俺が道徳的な人間だからというわけではまったくなくて、俺が本心では偏見や差別意識、非倫理的感覚を持っていたとしても(というか、持っているに決まっている)、それらを大々的に表明することによるメリットよりもデメリットの方が大きい、すなわち俺の得にならないと判断するからに過ぎない。
人あたり良くしてるほうが効率的だし無駄なエネルギーを使わずに済む。
実のところ俺は温厚でも寛容でもない。
ましてや倫理的では絶対ない。
対立煽って双方得るものゼロのゲームに興じるほど暇じゃないってだけ。
なんでいきなりこんなことを書いたかといえば、なんとなく書きたかったから。
何かショッキングな出来事があったとか、オラァ愚民ども俺様に賛同しろーとか、そういうことではないです。
こういうエクスキューズをあらかじめ用意しておくあたりが俺の卑小かつ姑息なところですね(´・ω・`)
ただ単に、俺はもうゲームから降りましたとだけ伝えようかなと思って書いた次第。
このエントリは常日頃ボヤーッと考えていたことについて、スタンスの表明も兼ねて整理してみたものである。この考えが嫌いとかムカつくとかウザいとか、そう思うひとはそれでいいし、それもひとつの正しさなんだろう。
ただ俺とは合わないと思うので、深く関わらないほうが互いにとって得策ですよ。
たぶん。